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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,2,19 PM7

二月中にもう一回記事を書けるかどうか微妙だったがどうにか。
さすがにゼミ乗り越えたら時間ができ……ないね。心理的余裕に比例する。
テスト週間でお目こぼし願っていた圃場当番も復活。スイッチする形で他の人々が忙しい時期に入るため割増しで。

/私記

言葉において気が利かない人間というのは見ていてひやひやする。
いや、気の利いた言葉を気の利いたタイミングで発信できないというだけなら、益を生まないというだけで害を生むことはない。口をつぐんでいる限りは余程のことがない限り悪意を向けられない。
問題は、気の利かない言葉を口にしてしまう人間だ。発する言葉において気の利かないことが顕著な人間のことだ。
一応わざとではないと前提しよう。ただしその仮定が免罪符になることはない。人格やセンスの問題だからしょうがないと諦めるかどうかは受け手の考えることだ。わざとでないとはすなわち、発言者自身の中で気の利かない発言をしたという現実が負い目として感じられていることを保証することでしかない。
その前提の上で言えば、結局、彼らは受け手のことを何ら想定できていないのである。いや、そんなことはない、自分はそれをちゃんとしている、と彼らの誰かが言うのであれば、その場合は想定がずれていると言い方を変えればこちらの言いたいことは伝わる。
一つ誤解がないように言っておけば、自分は必ずしも気の利いた言葉を常に口にできるわけではないし、時々は相手の反応を想定せずに言葉を発する。自分のセンスが高評価を得るという確信もない。他人のセンスに嫉妬し、自己の向上へ精神的に努めることでかろうじて立場を保っているに過ぎない。精神的向上に努めない者が立場を保つ資格を持ち得ないことを知っているに過ぎない。
この、精神的向上に努めない者のうち、受け手の想定ができていない者に関しては、まずはそのことを自覚させなければならないのだろう。
ここで若干彼ら本人にとって不利なのは、気の利かない言葉を多く発する者は自然人望を欠くことが多く、人望を欠く者へは他者が向上・好転の機会を与えることも少ないということだ。このことは全くもって人情の弊害であり不幸と言わざるを得ないが、そのことを理解している大人が自らの損益や結果を顧みずあえて彼らに機会を与えんとすることは大人の大人たる義務であろうとも思う。教育という名のチャレンジだ。ただし、おそらく彼らに自覚をさせて自分なりの方法論を提示するところまでが義務とされる範囲であろう、とも思う。自覚させられた本人がそこでふてくされ、あるいはひねくれ、勝手に開き直った場合は、大人であれどその者に愛想を尽かせてよい。その時こそ、これ以上干渉してやる義理はないと断言すべき時だ。私は刑法における死刑がこれの究極形に当たると考え、死刑を否定していない。
それにしても、ネットへの発信、家族のみとの会話に慣れ切ってしまった若者の中に、気の利かない言葉を口にする者は多い気はする。などというのは根拠の薄い、喘ぐような理由付けだが、彼らを見ているとそんなことも言いたくなる。とかく彼らは、相手の反応だけでなく、常に「ふたことめ」を用意しない。相手の反応も含め、発言から想定される続きをすべて「ふたことめ」と定義づけてもよい。それらはネット上の簡易な発信装置を使う上では不要な想定物だ。もちろん必要になる場合もあるが、それは明らかに現実的な利益を目的としている。簡単に言い換えれば、掲示板などの個人を特定できない場所、他人と特定の関係を築き上げる必要がない場所においては、とにかく発言によって人望を買う必要がない。ツイッターなどアカウントという名の個人が規定される場所ですら、立場を守ろうと思わなければ低劣悪辣がそのまま許される。目的がはっきりしている場合ですら、結果を成功と失敗の二通りで機械的に見定めた時点でそれを終了とすることができ、さらにアカウント削除やスレ放棄といったリセットが効く。
――と、ネットで学習できる方法論をそのままリアルでの、特定の関係のある個人との会話に当てはめればどうなる、という話をここで断定的にするつもりはない。ネットを悪役にすると話がしやすいがためだけにそうしてみた。それだけのことである。ネットとリアルの比較論は万能ではないし、ともすればネットにおいて良好な人間関係は築けないという結論に陥りがちだ。ゆえにこのあたりでよすとしよう。
とかく「ふたことめ」を想定できない者はリアルにおいて、基本的には概ね、特別人望を得やすい才能でもない限り、特定個人との建設的な関係を長続きさせられない。受け手の信用を機械的に得ることが不可能に近いからだ。受け手が良心的であればあるほど、受け手は想定されない「ふたことめ」の捏造・生産のためにあくせくと働く羽目になる。
無論、リアルにおいては受け手もまた同時に発信者である以上、「ふたことめ」に関わらなければ建設的で持続的な関係は紡ぎ出せないが、今は受け手を受け手としての役目に限定して話をしたい。仮に想定される「ふたことめ」が受け手に発信を委託するものだとしても、それを成功させるものは発信者が想定した「ふたことめ」の妥当性、すなわち勝算とでもいうべきものだ。明らかに受け手が発信するはずもない「ふたことめ」を想定して発信し、その結果受け手が想定外かつマイナスのレスポンスを出す、あるいは無反応だったとしても、受け手に多くの非は認められない。発信者の想定がそもそも失敗しているからだ。勝算を見誤ったとも言える。この、勝算を見誤った発言こそが、まさに「気の利かない言葉」の代表格である。

我々は日々、言葉を発することによって、相手からその都度信用を買っている。
気の利かない言葉は、その信用を徐々に、場合によっては著しく損ねるものだ。
上で書いたように、「ふたことめ」の想定ができないからこそ生じるその損失は、損失そのものとしても想定の範囲外であり、すなわち望まれない損失であると言えよう。
損失は受け手にも想定外の我慢と努力を強いる。その是非は受け手のウツワの大きさのみに頼られるものではない。受け手のウツワが割れる限界点を決めるのは、受け手が持つこちら側への信用だ。いかに受け手がウツワを大きく保とうと、信用のない者の損失が強制する我慢と努力は、そのウツワを粉々に砕くだろう。

言葉選びなどセンスの問題だ、と決めつける者は多い。確かに、センスのある者にセンスのない者が追いつくことなど、根本的には不可能なのかもしれない。だが気づいてほしい。言葉とは要素と並び替えによってニュアンスが変わる非常に単純な構造物だ。語彙を増やす努力をすれば自然に選べる要素は増える。並び替えもまた、センスのある者を見習って、工夫する方法やバリエーションを探ればいい。そもセンスのある者から技術的な部分を全く抽出できないという発想が間違いだ。全くは無理でも一割ならできなくもない。センスある者ならほぼ無意識に行っている言葉選びだとしても、思考であれば必ず手順が存在する。その手順を解読すればよい。できなくともしようとしてみれば、近い技術が自分のものになるかもしれない。
いわば、嫉妬からの向上心だ。なぜ彼はこんなことが思いつくのか。彼のバックヤードと視点と物事の並べ方はどうなっているのか。これをわからないで済ませず、自分のものにしてやる気持ちで何通りも想像を重ねてみる。その過程で彼のセンスを追い越すことがあるかもしれない。否、希望的観測に甘んじず嫉妬を覚えたままにしておいた方がよい。嫉妬から目を背けてはいけない。

以上は何もコミュニケーションに限ったことではない。コミュニケーションを取りたいわけではないというのは逃げ道にならない。人と関係を持つ以上、相手に聞こえる場所でしたSpeakはすべて自分の信用へと、評価へと繋がる。信用と評価はリセットされない。また、互いの信用と評価なくして一つのコミュニティが持続的かつ建設的存続することなどあり得るはずがない。ひいては誰も平和的かつ有意義な時間を手に入れることはできないだろうと、ここへ辛辣に提言しよう。できればこれを読んだ若い者が、自己の信用を少しでも意識し始め、明確な向上心を抱くことを願っている。