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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,3,4 PM11

本を読むか映画を見ないと日記書く気が起きない無精。

アニメの感想をいちいち書けるわけでもない無精。というかツイッターで済ませてしまう。
人様に見せたいわけでもないものをダラダラ流してもアレだから基本2ツイートに絞っちゃいるが。

今季今のところ一番楽しみに見てるのが、犬僕SSとモーパイ、それからアナザー。
次点が偽物語とあの夏と、若干落ちてきているがミルキーかな。そしてそこになんとキルミーも並ぶっていう。
銀翼のファムには頑張っていただきたかったが、すでに擁護しきれないところまで来てしまった。尺が足りないんだとも思うがそれでもこんな脚本では到底……。

引っ越しはとりあえず転居先の話がまとまった。
大学からアホほど近い。これで不良学生という言い訳が立たなくなったわけだ。
残念ながら当初希望していた家賃よりひとまわり高くなって今とほぼ同額になってしまった。スポンサーの負担減らしはついでというわけでもなかったのだが。
欲を書かなかったと言えば嘘になる。

さあ、とにかく話がまとまったということで本格的に荷物の整理を始めなければならない。
そしてここにきて腰が重い。ちょっと安心するとすぐこれだ。


/ゲーム

腰が重い原因の一つ。

終わらない気分転換。暇つぶしの前借り雪ダルマ。等々。

不思議なアメちゃんで装備を進化させるのにハマってしまったのが運の尽き。
どの装備も最終形態がいい具合にユニークで…はは…。


/校閲・その1

小説の書き方について初心者に教える(素人が素人に教えを与えるなどと←通常の三倍の人は今だけ黙っててください)とき、予想外に苦労させられるのが「特殊語の選択」である。

ここでいう特殊語とは(便宜上今作った言葉で恐縮だが)、広義の若者言葉を主に指し、ネットスラングなども含む。これらは日常においては頻繁に目にする言葉であるが、活字の中で扱うことにどう問題があるのか。

これを教えるにあたって最大のネックにもなりポイントともなるのが「使ってはいけないわけではない」ということだ。
要するにケースバイケース。
場合によっては赤ペンが入るし、必ず入るということはない。

では、どういう文脈だと赤ペンが入ってしまうのか。それを言う前にまず、特殊語が特殊語であることが明白に認知されていなければならない。どちらかといえばここに齟齬があるケースが多いようにも思う。
特に若者言葉の軽度なものだ。
「○○的(テキ)」「普通に〜」「微妙に〜」等が代表だろう。私だって日常の話言葉でもこのブログやツイッターでも九官鳥のように使いまくっている。
だが、日常で普通に(←このように)使用するがゆえに、そもそも正しい日本語ではない、便宜を優先した変則的な言い回しである、という自覚が使用者にない場合がままある。しかも、ゆとりだ何だと馬鹿にしてしまうのは簡単だが、本気で自覚がない者に物証もなしに気付かせるのは至難の業だったりする。相手が認めなかった場合などは、非常に不毛で次元の低い議論に発展したりして散々である。
……なんとなく(←これも)愚痴が入ったような気がするが、話を少し戻す。先も言った通り、主な特殊語の使用は、基本的に「伝達の便利さを優先した変則的な言い回し」である。この事実が示唆しているのは、「変則である以上、条件が整わない限り使ってはならない」ということである。特殊語の使用に無自覚な者がこの不文律に自分で気が付いていることも稀だ。

また、ここでいう「条件」というのも非常に厄介な代物。
少なくともそれに見合う杓子定規は存在しない。無念ながらここで素人加減をさらすことになるが、特殊語使用の是非を見分けるための要素は「全体の雰囲気」と「文脈」、「ニュアンス」などといった曖昧なものだ。「違和感の有無」などともまとめてしまえる。裏打ちしてくれるものも自分の経験・インプットの質だというのだから、頼りない限りだ。
無論、大声では言わないが、校閲に携わる以上自信は持つことにしている。これは信条でもあるが、校閲作業を商品と仮定すれば提供者としては自信を持つことによってその品質を保証せねばならないはずなのだ。もちろん無根拠であっていいはずがないので日常的に辞書を引き、読書を嗜むなどしてインプットを裏打ちできるだけのトレーニングをしておかなければならない。

少々脱線しているようだが、結局のところ特殊語使用の「条件」にしてもそれを意識することにしても、上手くいかない場合は作者側のインプットが質的あるいは量的に足りていないことがほとんどである、とは言っておきたい。

「条件」に関することで一つヒントを言えば、読者の目を意識することが何より大切であると言える。
上で言った「全体の雰囲気」や「文脈」等は、実質的には読者が掴むものであり、「違和感の有無」も読者が判断するところだ。
逆に問おう。雰囲気や文脈で読者を丸め込んでしまえるなら特殊語を使ったところで何の違和感が生まれようか。
ここで教える側がよく間違うこととして、「読者に意味が伝わらないからアウト」という指摘のし方である。もちろん絶対的な間違いではない。「言葉が、その作品の読者として意識される層には明らかに伝わらない・そぐわない」場合であれば的を射た指摘となるだろう。その教え方に問題があるのは、言われた側が意味が伝わらないことを読者のせいにしてしまえるから、というのと、逆説的に「意味さえ伝われば問題ない」という誤解を持ちやすいため、である。

読者のせいにしてしまう作者は論外。もしくは校閲側との信頼関係が築けていない。この2ケースは校閲の心得云々以前の問題である。

後者において、「意味さえ伝われば」などと、曲解をして思考停止を選ぶような作者が悪いのは言うまでもない。だが、教える側がみすみす逃げ道を提示してやることもないだろう。基本的に「読者に文脈で補完してもらうこと」に逃げた者は文章の美しさから正そうとしないものだ(文脈による補完を効果として狙うこととは意義が大きく異なるが、今はそれについては割愛)。そういう者は指摘されたところだけはいはいと素直に直して満足していることも少なくない。
言葉選びの失敗とはニュアンスの歪さからきている場合も多いのだ。「まあ意味は伝わる」というのは校閲側の譲歩でも明らかに文章への不満をはらんでおり、作者はその時点で自分の文章力・日本語力に少しでも疑問を抱いた方がよい。

さて、特殊語のことに焦点を戻せば、「意味さえ伝われば問題ない」がまた大きなネックになってくる。ここでの問題は、若者言葉やスラングにも当てはまるが、教える側からして最も厄介なのは、「あたりさわりのない造語」である。そう、まさにこの記事で取り扱っている「特殊語」という言葉自体が、皮肉にも対象と言える。

もちろん、そのことを意識しているがゆえにそれが造語であることは最初に明記してある。だが、小説において「※造語」などと併記することは通常ありえない。そもそもそういう必要性のある言葉をそのまま使っていいはずがない(偽物語の「プラチナむかつく」などはネタとしてその意味を説明している)。
一応それなりに意味が伝わってしまうがゆえに校閲側が指摘しにくく、またスルーしてしまいがちというのも課題の要素である。特に一人称文体での地の文、すなわち登場人物による語りの中で、語り部の年齢相応とも言える略語などが出てきた場合のグレー感マジパナイ。「特殊語」もまた「特殊な語」の略と言える。

実際グレーゾーンではある。
だが、ここで意識してほしいのはまたも読者の目だ。
ここで、敬愛する大間九郎先生の『ファンダ・メンダ・マウス(宝島社)』の冒頭から一文を引いてきたい。

強がりに聞こえるかもしれないが、おれは幸せになりたいとか金持ちになりたいとかそんなイリーガルであっぱっぱっな尻が青くて眩しい欲望丸出しの夢を持ちたいとか、いい女はべらして万ケンシャンパンドンペリジャンジャンBMベンツにPMゲッツーみたいなことがおれの今の生活に少しも必要だとは思わない。

造語云々の例としては少々難があるかもしれない。こんなところでも素人の至らなさが出て非常に恐縮である。が、とにかく上の一文は意味不明スレスレだろう。はたしてこれが、「一応意味が伝わるからOK」などという逃げ口上で成立している一文だろうか。
ここまでしてくれればここまでアホな文章もむしろこうでなくてはならない、これでこそセンスがある(私見だが)と一定層の読者から支持を得られるだろう。気になった人は実物を購入の上買って読んでみるといい。全体的にこんな感じというかこれ以上だ。こんな例は埋もれてしまう。
だが、こんなギリギリ意味がわかる文章よりも意味が分かりそうな造語が否とされる理由は何か。ここで再び読者の目を意識する。もし仮に作者がその造語を何らかの意図があって作ったのだとしても、断らない限りそんな「作者の個人的な事情」は伝わらないだろう。読者が見ているのは「作品の事情」のみ。作品の事情を見るに、大間先生の例は成功していると言える。だが、作品の事情が擁護してくれない造語を、作者の事情を知らない読者が見たとき、何を思うか。
簡単な話である。
読者は作者がその造語が造語であることに無自覚である可能性を疑う。
すなわち、作者の教養のなさが疑われるのだ。

作家には酷な話となるが、読書という行為のモチベーションに関して、作者への好感というのは決して小さくない。当たり前の人情というものだ。
そして、作者が教養のなさを晒せば、作品への期待感もそがれ、読書へのモチベーションが薄れていく。無論、本当に無自覚に造語を使ってしまうような教養もセンスもない者の書いた作品が、たかが造語一つで読書をやめるほど神経質な読書家のお眼鏡にかかるとは到底思えない(最初の三行でサヨウナラだろう)が、同じ過ちを繰り返していれば心の広い読者だって愛想を尽かす。何より、多くの人間が「たかが造語」という印象を抱くであろう次元の低い問題で点数を引かれてしまってよいのか、という疑問を作者は抱かなくてはならない。どうでもいい・無益だからと放置してしまうのではなく、そんなどうでもいいことで損をしないようにする人間こそ私は賢明だと思うのだ。また同時に校閲する者も、そんなどうでもいいことで作者に損をさせてはならない、と。

その2へ続く。

ファンダ・メンダ・マウス (このライトノベルがすごい!文庫)

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文章の書き方 (岩波新書)

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