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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,3,9 PM6

自宅のメイン端末のニックネーム忘れた。


/東方デスクトップアクセサリー

デスクトップアクセサリー集 ‐ ニコニコ動画:GINZA

みすちーチルノがお気に入り。前者は速度5でポインタ追わせてる。後者はヘビロテオーディオ。
あとはにとりにステルス常備でいたのかよ!?して、気がついたらパチェが本読んでる仕様にしてる。
同時起動はうちのPC(名前忘れたやつ)だと6,7が限界。それでも時々何かの拍子に重くなる。けど懲りずにわらわら。
ちっちゃいおかげであんまり邪魔でもないし、動き回るのでたまに邪魔でも勝手にどいてくれる。クリックでドラッグできないのと、一度消すとフォルダまた開かにゃならんのが唯一の不満か。後者はショートカットフォルダ作れという話だろうが。
ラインナップとしてはあとちぇんと大ちゃんが出てきてくれればもう何も言うことはない。

蒼穹工房のにも手を出した。というかあっちの幽香さんが発端。だったが邪魔にならないという理由でさいばーばんきゃー圧倒的。ギミックも。


/謙譲

「へりくだる」ということに関して内輪で一瞬話題が出たので。

けん‐じょう【謙譲】
 へりくだりゆずること。謙遜。

へり‐くだ‐る【謙る・遜る】
 他をうやまって自分を卑下する。謙遜する。

広辞苑より)

上司や先輩はもとより、初対面の人に応対するとき、また時と場合によっては対等の人物に対しても、へりくだった物言いをすることでやり取りを円満なものにすることができる。
が、言わずもがな、むやみやたらに使えば使うほどいいというわけではない。言わずもがな
使い方を間違えれば大やけどを負う。ほんのちょっとのニュアンスのズレで、目上の者の逆鱗に触れ、身内からひんしゅくを買うことにもなりかねない。うるさい人間はどこにでもいるものだ。ここにもいるものだ。言葉においてニュアンスが大事でないのだとしたら、我ら物書きは概ね生きている意味がない。

正しい礼儀において「へりくだる」とは、ひたすら自分を卑下して相手を持ち上げれば成立するというものではない。はっきり言ってしまえば、自分をあからさまに卑下するようなへりくだり方や、相手を必要以上・相手の立場不相応に持ち上げる物言いは、礼儀としては落第モノである。

例えば、誰かに教えを乞う者が「お手数をおかけして恐縮ですが」と前置きするのは普通のこととされる。「お手を煩わせてしまって――」「ご面倒でしょうが」もまだ許される。言葉が持つ直接的な目的としてはどちらも「自分が目下(世話を焼かれる側)であることを認めている」と相手に示すものであり、間接的には「仕事を増やして申し訳ない」という相手への配慮、遠慮をも、読み取られてしかるべき水準で示せている。逆に、それ以上の謙遜は示していないとも言える。また、教えの内容について言及していないが、この言葉だけだと「頼んだ増やした仕事」と「頼まれた側がすでに持っていた仕事」がまだほとんど対等あるいは双方の立場相応で「≦」という扱いとなっている。

では、同様の主目的、間接的目的で言葉を選んだとき、

A)「損な役まわりをお願い申し上げることになり大変心苦しいのですが」
B)「私めのような者に貴方からご教授いただけることがどれほど理解できるかわかりませんが」
C)「このような若輩に付き合わせてしまうことを心よりお詫び申し上げます」

これら三つはいずれも、場合によっては相手からよくない感情を引き出す可能性が高い例である。

Aはまだ、単に教えを乞う側が自分から教えを乞いに行った場合であれば許されるパターンである。多少しつこさはあるが、相手の器が小さくなければ反感を覚えられることもないだろう。

ただし、ここで脱線することにはなるものの頭の隅に留めておいてほしいこととしては、強すぎる謙遜はむしろ攻撃的に見えてしまうということである。「損な役回り」などと言っている時点で「増やした仕事」のイメージがやたらネガティブなものになってしまう。事実としてその仕事がネガティブなものであっても、「損」とはっきり明言されてしまっては受ける側も気持ちよく引き受けられない。また、「(お願いするのが)大変心苦しい」というのも、受ける側からしてみれば気分がよくない場合が多い。そこまで切羽詰まった物言いをされては大抵の場合断りにくい。事実断るつもりがなかった、どころか快諾するつもりであったにもかかわらず、なんだが脅されて仕方なく引き受けたかのように錯覚されて、これも気分がよくない
とされるかもしれない。受け手が極端に繊細な者であれば、自分にものを頼むのはそんなに伴う行為なのか、そんなにも自分と相手の間には大きな壁があるのかと、それこそ無用な気を使わせることになりかねないだろう。双方の立場相応の謙譲で済ませることは、へりくだる側が頭を低くしたという自己満足で終わってしまわないためにも大切なことである。

さて、こちらがAに関する本題だが、では教えを乞う側が自分から振り向かせたのではなく、教える側がすでに教える立場の者(上司や先輩)としてあった場合はどうであるか。

Aは考えなしも甚だしい。相手のプライドを踏みにじる行為であると言っても過言ではない。

特に教える側が教える側として苦心していることがわかり切っている場合等は最悪である。たとえ彼が仕方なくその立場についているのだとしても、彼はそれが「損」であるなどと認めたくはないはずである。認めた時点で嫌になってしまう。我を忘れないための、当たり前の人情である。そこへ外部から「あなたのやっていることは損です」などと明言されてしまったらトドメを刺されるも同然。何かしらの「得」へ転じさせようとポジティブに頑張っていた場合もあるだろう。そういった精神的な努力をも嘲笑うことになってしまう。

Aの間違いは、先に言い及んだ謙譲としての過剰が一つと、受け手に対する遠慮の仕方が、労いではなく憐れみに起因してしまっていることであると言える。相手を下から持ち上げ支えようというのではなく、上からやさしくすくい上げるようとすることで、結果的に好印象を得たいという欲目すら、こういう人間からは透けて見えるのかもしれない。

Aに比べればB・Cはある意味非常にわかりやすい例だろう。

Bは、物言いから内容でまで自分を卑下してみせ、また相手を自分では遠く及ばない人物であるとしてめいっぱいヨイショしている。こびへつらうようであざといと中傷することもできるが、何よりこの例は、言ってしまえば「へりくだっているだけ」である。礼儀としては落第点もいいところだ。

事実として、非常に難しいことを訊きに行ったので、期待される返答も難解であることが容易に想像されるというケースかもしれない。しかし、事実はどうあれ、「理解できるかわからない」=「教えても無駄に終わるかもしれない」などと、教える側にあえて言う必要があるだろうか。教える側として、その結果はなるべく想像したくないこと、想像すると不愉快になることではなかろうか。だとすれば、理解されないという結果を想起させるような発言は、ひたすら配慮が足りてない、礼を著しく欠いていると言わざるを得ない。人を不愉快にするような発言が労いや遠慮であっていいはずがないだろう。
(そもそも、理解する気のある人間であれば、その口から「理解できるかわからない」などという世迷言が飛び出すはずはない。「わからない」と言った時点で理解する気がないのかと疑われるのは当たり前だ)

ちなみに、言うまでもないことだが、あえて「理解するよう努力します」などといったポジティブな発言をする必要もない。当たり前のことだからだ。むしろ、当たり前のことを明言するのは当たり前でない可能性を匂わせるだけでしかない。未来の結果については何も言及せず、結果そのものを見せることで答えれば充分である。

Bの間違いはただ一つ。自分が頭を下げることばかり知っていて、相手のことがまるで見えていない。杓子定規な礼儀を実行しさえすれば上手くいくと思っている人間のいい例である。

Cはといえば、正直一目瞭然だとは思うが、結論から言って「へりくだっていない」。むしろ相手を馬鹿にしていると取られても無理はあるまい。

一応、これを使う場面もある。受け手に、その依頼と直接関係のある実益が発生している場合、いわゆるWin‐Winだ。それもかなり現金な取引の場合に限る。相手に非間接的に実益を渡している時点で、形式以上にへりくだる必要性がない。つまり、相手の応答として「いいえ、こちらこそ」が期待される場合と考えればよい。

が、ここで言いたいのは教える側が原則として無償である場合だ。
今使っている例は「教え」だが、つまりは実益にあたるものを得ているのは依頼者である。Bの例で言ったように、実益を実益として結果的に享受できているかどうかにかかわらず、依頼者には「礼儀」というステージにおいて「感謝を示す」という義務が生まれている。その感謝こそが【謙譲】における「相手をうやまう」にあたると言って間違いはないだろう。

そこを感謝ではなく謝罪で示すとはどういうことなのか。
依頼者はいったい何に対して謝っているのか。
単純な話である
受け手に依頼を受けさせたことである。
依頼を受けた受け手が依頼者にもたらした実益こそが、依頼者にとっての罪であると言っているに他ならない。
礼を失するどころではない。人として最底辺の振る舞いではなかろうか。

受け手は依頼者に何のために実益となるものを渡すのだろうか。心の底では何を思っていてもいいだろう。心は見せるために存在するのではない。だが少なくとも、実益となるものを渡されたこと自体を罪の意識で捉えてほしいとは思っていないはずである。というか予想だにしないはずである。普通に考えれば受け手は感謝されたいとも思うだろうし、渡した実益から依頼者がさらに発展してくれることを望む場合も少なくないだろう。そもそも無償という時点で、依頼者は今度は自分が期待されることになる可能性を疑わなくてはならない。

それに対して「ごめんなさい」と突きつけるということは、受け手が無償で与えてくれた実益から連続する成長の期待(おそらく良心と呼んでいいもの)を踏みにじる行為以外の何ものでもない。Cのような発言が孕むのは礼儀云々以前に人間性の問題である。

礼儀として正しい「謙譲」とは、低い姿勢を見せることを形式としながら、同時に自分と相手が対等もしくは立場相応の関係といえる範囲に留まることで初めて礼儀として成立するものだとも私は考えている。だから自分を卑下しすぎた状態で謙譲を示せば礼儀としては歪むし、相手を持ち上げすぎた場合も同様である。抽象的な言い方になるが、要は、相手も自分もひっくるめて人間というものを尊重する姿勢を示すことこそが、礼儀としての「謙譲」の核となるのではないだろうか。

書面で人に指示を与えるとき、同じへりくだるにしても、その指示が相手への配慮を発端とし、相手の行為の制限を減らすものであった場合「〜していただいて結構です」のように、自分の都合を発端とし、相手の行動に制限を与えることになる場合は「〜していただければ幸いです」のように言葉を選ぶのが正解である。これを逆にしても気にしない人間は気にしないが、うるさいのはここにいる。そもそも「〜してもいい」という指示をわざわざ「〜してくれると嬉しい」、「〜してほしい」という指示をあえて「〜して構わない」と言い換える必要性がわからない。関連する事実を確認すれば、言い換えたかどうかそのものがわかってしまう。小ざかしい変換などバレるのだ。そこに何らかの欲目を疑われてもおかしくはない。現に、相手の制限を解くのに「〜してくれると嬉しい」などと言うのは白々しいし、いい人ぶろうとするいやらしさが透けて見えて気色悪い。「〜してほしい」と素直に言えばいいものを「〜して構わない」と許可を与える立場にあるかのように言われれば、何様だ、と言いたくなる。

人情をなんとなくでも正しく理解できる者であれば、この程度の誤りは無意識に回避できるものなのだが、なかなかどうして、このような基礎的なところで躓く者は大人になっても後を絶たない。


/校閲・その2

前回の続き。むしろこちらをメインにするきっかけで記事を作成し始めたのだが、オードブルで満腹になってしまい分割する羽目に(上にまた別のはさんだせいで死にそうになっているのはナイショ)。まあ続くって言っちゃった手前、忘れないうちに。

きっかけというのは、とある寄り合いで企業戦士の方から聞いた話。ゲーム会社の方なのだが、ほかの会社のとあるライターが自分の作品において「他の作品から単語だけパクる行為」をしていたのが問題になったとか。単語だけパクるというのはつまり、他作品に登場あるいは関連する固有名詞を、自作のまったく関係ないものの名前に使う等するということだ。例えば、「パチュリー・ノーレッジという名の大型二輪」などがそれに当たる。

先に挙げた例は極端にあからさまなものだが、では、「トイズ」ではどうか。何に使われるかにもよるやもしれないが、とりあえずミルキィホームズのパクリである可能性が疑われる。一応根拠はない。英語の‘toy’を語源とした結果、偶然同じものになってしまったという申し開きをするのも無茶ではない。だが、企業的には原則アウトなのだそうだ。

考えてみれば当然である。企業経営は信用のもとに成り立っている。明白なルール違反だけでなく、疑わしいとされるものまでできる限り排除していかなければならない。少なくとも、疑わしいというもっともな指摘をされてしかし証拠がないじゃないかと居直る者は、企業であれ人間であれ、言い含めることは諦めざるを得ないとしても信用するには値しない。(このへんをわかってないガキンチョも最近たまに見かける気が……)

(実をいうとその寄り合いの際問題のゲームを実際に紹介してもらったのだが、そのタイトルを見るやそういう「パクリらしき疑い」を新たに発覚させてしまった。本当に根拠はなかった(パクリ元の作品の発表時期がごく最近であること以外)のだが、本当にそんなレベルでも問題になるのだそうだ)(あ、半分はちょっと自慢したかっただけです)

さて、前置きが少々長くなったが、今回はその出来事から派生して、校閲・その2「ちょっとしたパクリ」について、である。

私の所属しているアマチュアライターの非営利組織が発行してる同人誌ともなれば、パクリや引用などに関する規制はかなりゆるくなる。基本的に盗作や歌詞等の過剰引用、世界設定やキャラの丸パクリ以外は許されてしまう(我がサークルは二次創作を受け入れていない)。
と、規定の上ではそうなっているが、校閲、というより一読者からしてみれば、上のような単語パクリを含め、純粋な引用でない「パクリ行為」はあまり褒められたものではないと言わざるを得ないため、校閲作業中に見つけた際は眉根を寄せて作者に迫ったりもしている。

しかし、なぜダメなのか、なぜやめた方がいいのか、ルールがない以上、校閲側は何か言いたければ根拠を示して説き伏せなければいけない。これが毎度骨で、面倒な時はスルーしてしまっている。そもそも同じパクリ方でもダメな場合と許せる場合があって、機械的な線引きが行えないのが難点。

ダメなパクリがダメな理由は、ひとえに「面白くないから」「気に食わないから」と、主観が主を占めてしまう。

実例として比較的一番多いと思われるのが台詞パクリである。
掲示板等でコピペが流行る以前から、役者の口上を真似るなどの模倣は、書き手の遊び心や趣味の現れであったり、ものまね芸の一環であったりと、やりたくなるのが人情であるとして充分示されてきた。元ネタのわかる読者からのウケを狙って台詞パクリが行われることもしばしば。文脈にさえ合えば放り込むのは結構簡単だったりする。

だが、安易に行えてしまうことほど安直さが仇となる。これはそのいい例である。
特に、新しいものや流行りものから持ってきたネタほど忌避される傾向にあると言える。尻馬に乗ろうとする欲目、作者が持つ元ネタへの思い入れ、自分ではうまくやったつもりという作者の自己満足、結局作者が強くそれをやりたいと望んだ結果であるというオナニー臭さ、といった、読者に端的にイラッとさせる要素がかなり透けて見えやすい。自制の利かないアマチュアには特に多い。パクリを芸として昇華させられない以上、実際それは作者の思い入れを反映させた、イタいオナニーでしかないことが非常に多い。

さらに、ここからパクリ特有の二段落ちである。
パクリがパクリとしてひんしゅくを買うということは、すなわち、客として狙った「元ネタのわかる層」の読者が真っ先に敵にまわり、「ネタ元に対する侮辱である」「名状しがたいレベルの劣化版」などといった、おそらくネタを使った側としては不名誉極まりないバッシングを招いてしまうということである。ギャグが滑っている、決め台詞が決まっていない等といった単純な評価から受けるものより圧倒的に大きなやけどを負うと考えるのは私だけだろうか。

一応、パクリとして反感を抱かれやすいものとそうでないものとで、ある程度はっきりとしたネタ元の区分はある。
基本的にサブカルに属するもの、それ以外でもミーハーとされるものを元ネタとした場合は、よほどパクリ方・ネタの扱いが上手くなければアウトである。読者の主観・好感の有無に左右されるという点は、前置きで紹介した企業の例とも共通している。パクリであるというマイナス以上の効果をその扱いであげられなければ、当然誰にも受け入れてはもらえない。
対して、ネタ元が古典である場合は比較的寛容な受け入れ方をしてもらえる場合が多いように思われる。元を知っている人間が限られるというのもあるが、元がバレてその上でつたない扱われ方がなされていたとしても概ね許されるようだ。これはそもそも現金な欲目を持つことが難しいからというただの結果論だろうか。

そもそもパクリをパクリのままネタにするということは、笑いを取るため以外の方法としては認められないと私は思っている。ニュアンスはどうあれ「パクリだ!」というツッコミ待ちのメタなボケである。客いじりにも近いものがある。ここにおいて自然にボケ殺しに遭うような場合や、お呼びでないと言われる場合は容赦なく落第と言わざるを得ない。そして、笑いを取るためでないパクリは、リスペクトやオマージュとして昇華させなければ嘘だろう。すなわち、完全に自分の作品ながら「似たもの」を作ろうという意志が念頭にあるべきなのだ。現実に虎の威を借りたければまず虎を射なくてはならないだろう。そのために腕を磨くのだ。

という話をして校閲は作者を説き伏せなくてはならない。非常に面倒である。いや、何もここまで複雑で長ったらしい話をする必要はないと思うが、校閲する側がなぜダメなのかを理解していなければ話にならない。とりあえず、主観であれ何であれパクリに関しては最初にはっきりと宣言しなくてはならないのだ。「これは面白くない」「気に食わない」と。自分でそこまで思わなくても、思う人がいるかもしれない、と。