case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,7,26 PM7

/俗鬱

ツイッターで鳴りをひそめてから早いものでもう四日になる。

頭が疲れているからか、スルー力がへなちょこになっている気がする。最近加速度的に露悪的になっていくとある友人のポストを、もう見ていられなくなった。

社会人一年目がどれだけ大変か、自分にはわからない。体験していないものを、わかる、と言葉にして許されるほど自分は偉くない。
しかし、それを気にして、なんだそのザマは、人の知らない苦労を知っていることがそんなに偉いのか、そんなにも自分が一番不幸でなくては嫌か、とすら言えずにいる今の状態には、はたして誰に何の益があるのだろうか。

そもそも逃げもし切れていない。呟くのをやめただけで見てはいるし、アカウントを消したわけでもリストをいじったりブロックを発動したりしたわけでもない。開き直ったのであればこんな独り相撲を続けてはいないはずだしこんなところに鬱屈を吐露する必要もなかったろう。
実に中途半端だ。見切りをつけるきっかけすら、自分で動かなくては得られるはずはないというのに。

あーーーーだめだ。結局自分のいいところと労苦に対して努力していることを箇条書きして廊下に貼り出すような真似にしかなりそうにない。それじゃおんなじだ。相手とおんなじだ。

選ぶべきときなのかもしれない。糾弾したくなくても、糾弾できる自信がなくても、糾弾する資格がないことがわかっていても、糾弾を資格なしにするというのがどういうことかわかっていても、なお、なりふり構わず糾弾しなくてはいけないとき、それが今なのかもしれない。それだけのものを相手に強くことを厭うている場合ではもうなくなっているのかもしれない。いつまでも黙って受け止められるほど自分は仏のように強くはないと叫ぶべきときなのかもしれない。闘うにしろ、本来の意味で逃げるにしろ、冷徹な道化に化粧を正すべきなのかもしれない。ただ、今はまだもうしばらく眠っていたい。