case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,7,29 PM3【映画録『大奥〈男女逆転〉』

『大奥〈男女逆転〉』
日本映画(アスミックエース&TBS)
監督/金子文紀、脚本/高橋ナツコ

大奥 <男女逆転>通常版DVD

大奥 <男女逆転>通常版DVD

公開当時にトレーラーを見て発想が面白かったのでレンタル旧作落ちしたのを機に視聴といういつものパターン。
吉宗女体化!とかホモォ大奥とか俗な見方もできなくはないが、単純にジェンダーに関してひと癖あるやつに自分は興味を持てる。
しかし、むしろそういう方向で期待しすぎない方がよかったかもしれない。実にこぢんまりとしたもので終わってしまった。脚本的には、映画の枠で収めるにはまあこんなものかなあ、という印象だが、そちらも男女逆転という要素があることで手を出せること諸々に、そのうちの一つにでも存分な深さまで踏み込んでいたかといえば、黙って首を横に振らざるをえないレベル。商業作品にはよくあることだが非常にいい子ちゃんな作品。結構エグいと思えるようなテーマを使っているだけに頭でっかち、あるいは出オチ、竜頭蛇尾という感想が出てくる。
大奥という機関の男性バージョンがどういったものか、という問いには、それなりに答えられていたように思う。武士としての意地という価値観が葛藤の元になったり、女性よりも性欲の自制が難しいがゆえに横行する男色の存在や、それに対する忌避、それから自害の方法としての切腹の存在感などから言及できるものには概ね言及がされていた。同時に、女性主導の世の中における子種を持つ存在としてどのような扱いを受けるのか、という部分にもかなり触れられていたようにも思う。実際に身籠ることがないというのはアンリスキーである上に回転率も高く、非常に使い勝手が良く、また無駄にもしやすい。ただし、この「無駄」という概念は男女逆転というよりパラレルワールドとしてのコンセプト(疫病の流行による繁殖の困難という実に動物的な問題)に起因してしまっており、脚本自体もまたそういう世界観的特色の方に結構呑まれてしまっているのがもったいなかったと言えよう。結末までそうとあってはコレジャナイ感は否定しようもなくなる。
男女逆転でしかできないことを、そのコンテンツを網羅することに関してはできていたが、どうにもこうにも上っ面だけな言及ばかりであった、というのが総括か。そもそも上っ面な言及で終わらせないという姿勢だったかどうかははなはだ疑わしいが、そこを疑い出すと何も言う必要がなくなるのでオミットさせてもらう。
なんというか考察を進めているうちに、そもそも私の期待したコンセプトとこの映画のコンセプトがずれている可能性にも気がついてきた。私はこの男女逆転大奥を、架空の時代ものとして日本江戸時代版女王制度の実現だと思っていたわけだ。だが、それとこの男女逆転とは微妙かつ大いに異なる。いわば尊卑の逆転ではなく、この映画で描かれているジェンダーは役どころの逆転が先にある形なのだ。私は女尊男卑によって勝ち取られた女王制と、男のための男による男の楽園と書くディストピアとしての大奥を期待していた。しかし本作は、男性の役どころを女性が担わざるを得なくなったがゆえのなし崩し的逆転でしかない。それを象徴する、というか極めつけの存在が、本作の柴崎コウ演じる吉宗である。
私が求めていたのは女性のトップ然とした女王たる吉宗だといえる。対して柴崎吉宗は完全に、男性将軍の代替であらんとする肉体のみ女性の吉宗であった。結局将軍という役どころを担う人間に求められるのが男性性であるという価値観から抜け出ていなかったのである。すなわち、と言おうとして例が二次元しか出てこないのは悲しいが、Fateのアルトリアだ。これでは明らかに男女観の変化が甚大であったとは言いがたい。
男性側も同様である。種馬として飼われているがゆえに女性的になっていく、女性版大奥の模倣となっていく、というのは、まさしく女性の代替として男性がいるに過ぎない。上に書いた通り性差による影響や反動は描けていたが、それ以外は女性版大奥とほとんど変わらない、もしくは違うと言えるほどそういう点に言及がされていなかった。
もちろんその方向で描ける価値観もあるのだから、私の期待したコンセプトと違うことが悪いわけではない。劇中で「女は怖い」というセリフが出てくるが、同じように男も怖い、という、結局人間としては同じようなものだということを、代替し合うことによって浮き彫りにすることはできる。さらにその上で改めて女らしさ、男らしさについて言及すれば、先入観としてあるジェンダーから恣意的なものをそぎ落としより洗練されたものに変えて見せることもできたはずだ。だが、それもまたなされていない。原因は、今度は逆である。主人公、二宮和也演じる水野が、最初から最後まで《男》であったことだ。
まずディストピアにおける価値観を浮き彫りにしようと思ったら、視点(観測者の代理)となる人物のディストピアに対する反感を見せる必要がある。だが、視点人物はその反感を抱く前に、ディストピアディストピアと知らず、真のユートピアとして信仰している必要があると言える。このディストピアに対する無知までは二宮水野でも描けていたし、実態を知った後の反感も充分である。だが、踏み込みとして無知とともに必要な信仰や憧憬といったものが、まったくと言っていいほどないようだったことははなはだ遺憾であると言わざるを得ない。
なるほど、男らしく江戸っ子気質で、淀みきった大奥の空気にも染まらない水野は確かに好感が持たれやすい主人公だろう。杉下(阿部サダヲ)のように縁者に恵まれなかったわけでもない。この男女逆転の世界観の闇からは逸脱していた、ゆえに特別であった。だが、それゆえに大奥の闇の奥に踏み込んでいくことができなかったといえる。もしくは闇を誘い出す餌として不十分であった。キャラクターより境遇の方がこの場合は大きな要素だったかもしれない。とかく下界を捨てるにあたって大奥へ抱く希望というものが何一つなかったし、希望を持たない者の足元を悪魔は掬わないものだ。一応大奥の中での出世という希望は扱われたがそういうことではなく、もっと俗っぽくて地に足の着いた何かが必要だったのだ。たとえば、出世して帰ってきたら幼馴染と添い遂げる約束だとか(しかしこの例を『大奥』という作品について挙げるのは不適当かな)。
とかくディストピアディストピア的要素と対角にあるものを希望として観測者に持たせなくてはいけなかったと言える。単純にカタルシスの不在と言い換えてもいい。逆境に至るには、水野に自分が男であることを一度ネガティブに捉えさせ、環境に流される必要があったのだ。ここで、男性が女性の代替を担うことの歪さが浮き彫りになっていく。歪な闇から抜け出すため、主人公は本当の男らしさ、男としての最後の一線を探し求めていくことになるわけだ。制作側に鋭敏な性差の意識がなくてはできないことだろうとは思うし、歴史改変モノでやることではないのかもしれない、とも思う。個人的にはやはり、純粋な日本江戸時代の女王制度を描いてしまった方がよかったのではないかとも。そちらの方がお手軽だったと言ってしまうと語弊があるが。というかどちらにしろ、そんなエグくてダーティなテーマをエグくてダーティなまま取り扱ってたら狙った客層には受けが悪いのかもしれんね。それならそれで脚本のマニュアル具合はもう少しどうにかならなかったのかと思わんでもない。お前は死んだ、はないだろう。お前ら全員クビだ、も何か違う。