case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,8,12 PM4 【映画録『シンドラーのリスト』】

生活リズム維持のため朝映画を日課に。
というわけで三本借りてきた矢先に当番仕事復活。あれそっちに時間回した方が無難じゃね?
とりあえずうち二本を視聴。人間って強い!という作品を見た後に人間って弱い!という作品を観るという謎墜死プレイ。一応偶然である。

シンドラーのリスト』 原題:Schindler's List
アメリカ映画、1993
監督/スティーヴン・スピルバーグ、脚本/スティーブン・ザイリアン

戦争体験世代ではもちろんない上に世界史にも銃火器のマニイズムにも全く興味を持てないボンクラながら二次大戦下ドイツ帝国及び制圧地ユダヤ弾圧についてそれなりに言葉を持てるのは、『戦場のピアニスト』を初め、多くの二次大戦映画を観てきたからだ。特別『戦場のピアニスト』はすでに視聴回数二桁に上る。しかしその自作の系譜に今まで『シンドラーのリスト』がなかったことを私は深く恥じなくてはいけない。また同時に、まだ遅くないと言える時期にこうして出会えたことで感涙にむせぶべきである。
いわば特定の人物を主軸に据えた伝記的な作品であるわけだが、たとえ創作的着想から成る作品だったとしてもここまでの賞賛に値したと思う。戦場の〜でもゲットーからの収容所送りを避ける公然の抜け道としてあった技術職資格証(ブルーカード)の偽装と、ユダヤの外にいた者をヒーローにするというコンセプトを組み合わせればそれほど困難な発想ではないだろう。ただ、ユダヤユダヤの生存のために尽力する作品は元より、前の文の後者のようなコンセプトの作品は実行されたものがいくつかある(『バティニョールおじさん』、やや大局的だが『ワルキューレ』等)にもかかわらず、肝心のドイツ人の商業階級の人間をヒーローとした作品が見あたらなかった。二次大戦自体が史実ゆえに事実にそういう例がなくては制作が難しかったというのはわかるし、へたに当時のドイツ人をヒロイックに描けば恣意的な美化と内外から揶揄批判されることも想像に難くない。だけにこの映画は、非常に殺伐としたリスクを抱えながら、今でさえ揺れの収まらずにいる細い綱を90年代の時点で渡ってのける必要があった。安易な着想ほど荷が膨らむとはこういうことではないが、本作はその手の荷よりさらに大きな荷を負い負いしもひるむことなく冷静に緻密に丹念に描き切ったのだ。かを名作と言わずして何と言うのか。
単純にセレブなオサーンのツンデレっぷりに萌える映画ということでもいい。最終的にはシンドラーというキャラクターを描くことをメインにした映画であるので、そういう見方が実は一番正しかったりする。ただそこにおいて肝心なのは、この映画そのものはシンドラーを「ヒーロー」として描いてはいないことだ。これはある意味シンドラーというキャラクターの核心ですらある。彼は自分の行動が商業利益を目的とした合理的な考え方に基づくものであるということを、役人(ドイツ政権下では将校が兼ねる)に釈明するための建前とするだけではなく、実際にそうでしかないのだと自らに言及しまた自らに言い聞かせるように常にしていたし、結局最後まで自分が善人であるとは認めようとしなかった。実際彼はユダヤ人の工場を安く買い取りユダヤ人を安い賃金で雇える状況下でなかったら、ゲットーのユダヤ人をどっさり自分の手元に置くことなんて考えもつかなかっただろう。軍に取り入る手段としてまったく別のものを見つけ出していたら、彼は晩年エルサレムに呼ばれることなどなかったはずなのだ。なりゆき、とはいえ、彼はもう引き返せなくなった。善人などという――きっと彼はそれを最も唾棄すべきものの一つだとさえ考えていたに違いない、まさしく商人らしく――存在に結果的になってしまうような行動を、取らずにはいられなくなってしまった。行動そのものは彼の自意識だ。さらに彼は、最初に自分で行ったことの本当の意味に気がついてしまった。これからは物の時代だ。金など意味を持たない。金など持っているだけでは何の意味もない。使い切れないほどの財産に何の意味があるだろう。彼にはきっと意味など必要なかった。ただ、すべてを擲ってしまわない理由もなかった。晩年の人生においてあまり幸福ではなかったことがそれを物語っている。自己犠牲ですらなかった。満足を得たいがための偽善ですらなかった。まして善行のつもりなどもとよりなかった。彼はただ、愛してしまったのだ。愛という言葉が恥ずかしければ愛着と言おう。本当にかけがえのない愛着を、何ものもその価値に及ばない愛着を知ってしまった。そういう人間がどうなるか、幸いにも私はよく知っているつもりだ。