case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,8,12 PM4 【映画録『リリィ・シュシュのすべて』】

リリイ・シュシュのすべて
日本映画(ロックウェル・アイズ)、2001
監督・脚本/岩井俊二

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

リリイ・シュシュのすべて 通常版 [DVD]

すでに5回も観ただろうか。10回は観てないと思う。ただ定期的に借りてくるからもしかしたら二桁…。
大昔にも感想書いた気がするけどその頃のブログは破棄しちゃった(残ってるかもしれんけど)のでリトライ。上で書いたようにシンドラーの〜とどうしようもなく悪い食べ合わせでもあったからちょうど良い機会だ。抉ればまた共通項もあるがさておき。
この作品がまず描こうとしたもの。端的に言えば「思春期」だ。中でも、過剰な自意識、先立つ感性、孤独感、万能感、不安定な自尊心に、立派と言える大人から見れば無知蒙昧や視野狭窄の結果でしかない世界観の錯覚・幻想・誤った絶望、言葉を充分に持たないがゆえに起こるそれらと、さらにそこへ露悪的手段による自己顕示の達成を加えた、いわゆるイタイもの。個人的には「中二病」と言ってしまうのが一番わかりやすい。まさにこの作品が物語を描くのに用い、また同時に炙り出しているものは、リアルな「中二病」そのものだ。
※ネット上でよく「厨」と変換して揶揄される「厨二病」とかなり酷似しているが同一のものである可能性は極めて低い。がとにかく、私の知る限りの「厨二病」にして本物とも言える「中二病」患者は、この映画を観てとりあえず発狂しなくてはならない。
映画脚本の方は果たして秀逸ではない類だろう。青春モノとはいえ少年漫画のそれと同等のリアリティだし、物語が(登場人物たちにとって)悪い方向へばかり転ぶように動かしたらこうなったと言わんばかりに、鬱展開のオンパレードで、その無作為さは実際安直に見える。カメラワークや映像構成は時に視聴者に不親切極まりないとまで言えるものだし、役者の演技は登場人物と完全に同一の年代を使っているだけあってやはり皆ぎこちない(それが逆にリアル中学生っぽくてよかったとも言えるがそれはまた別の話)。映画/映像作品的な美しさや見ごたえのある脚本と出会いたいならこの作品へ辿り着くべきではない。ただ、そこにある世界観、確かにそこにある世界の中で、自らを含めたありとあらゆるものに振り回される少年少女たちだけが痛々しいまでにリアルで、グロテクスだ。その世界では大人ですらファンタジー、少年たちを振り回すガジェットあるいはオブジェクトの一つでしかない(特に教師陣の無能っぷりは完全に作品の都合。まあ実際2000年頃の教育現場はあんな感じだったのかもしれないが)。視聴者は少年たちのリアルだけを見据え、カメラが抉り出すそれだけを捉え、眼前で確かめなくてはいけない。思い知らなくてはいけない。思春期が何なのか。そこに自分の感情を織り込む余地はない。ただその本質が見えたら、美しいと感じる人はそれを美しいと思うだろうし、気色悪いと感じる人はそれを気色悪いと思うのだろう。本当にそれだけ。ただし後者には、本当にそれだけだからこそ、こうも知ってほしいものだ。自分は彼らに何もすることができないと。人間は人間の魂に対して、震えが来るほど無力なのだと。そもその無力を認めることが怖いからこそ、この映画で描き出されているものは非常に忌避されざるを得ないのではないだろうか。
そう、この作品が炙り出すものが「中二病」ならば、同時に最終的に描き出すものは、人間の無力さだ。もう少し賢明な言い方をするなら、現代の人間の文化的活動の無力さ・薄っぺらさ・儚さ・虚しさとなる。さらにその文化的活動はインプットとも要約できる。これは創作者という自覚ある者としての自戒でもある。
この作品の中の架空のアーティスト「リリィ・シュシュ」は、作品の中の少年たちを救えただろうか。答えは否である。架空の存在であるか否かには関わらず彼女の音楽活動のコンセプトは知らない。もしかしたら誰かを救いたいとかそういうことを念頭に置いているのかもしれない。だが、もし仮にそうだとして、その救いたい相手とはずっと不特定多数の中の誰かであって、特定された唯一の一人のことではない。少なくとも「リリィ」は、この作品の中でもがき苦しんでいる少年たちのことをこそ意識し彼らをこそ救うために歌っていたのではないのだ。その結果を示すように彼女は映画の中の誰も救うことはできなかった。当たり前だ。最初から彼女は、誰もを救うつもりがあったのだとしても、誰かを救おうとはしていなかったのだから。
この皮肉はさらに、メタ的にこの作品自体にも降りかかっている。無論意図的にだ。視聴者のほとんどが思うはずだ。なぜハッピーエンドにしなかったのか。そのうち何人が気づくだろうか。ハッピーエンドにするのなんて簡単だった、という皮肉に。カタルシスなど、盛り込もうと思えばいくらでも盛り込めたのだ。事実そういった作品などそこら中にあるではないか。カタルシスがあったとき我々視聴者は感動を覚える。登場人物が救われれば自分たちも救われたような気持ちになる。たかがハッピーエンドにするということだけで!ハッピーエンドにしてほしいと何故望んだ?自分が救われた気持ちになりたいからだろう。だがそれは果たして、本当に救われたのか?救われたと錯覚しているだけではないのか?少なくともその救いは物理的だったろうか?
創作物がもたらせるものの限界がそこにある。インプットの単体がもたらせるものの限界がそれなのだ。
「リリィ」が象徴するように、きっとこの映画が誰かを救うことはない。映画自体がそのことに自覚的であったがゆえに、誰も救おうとはしなかった。そもそも「誰か」を救うつもりなどなかったのだから、誰かを救う必要などなかった。「リリィ」同様、誰かが救われるならそれはそれでよかったけれど、救う誰かなんて最初からいなかった。誰も救われないのがリアルなら、映画の中の少年たちも救われてはならない。少年たちが救われたところで、きっと誰も本当の意味で救われはしない。それが、この映画だけではない、すべての創作に共通して言える業だ。少なくとも昔のように、一枚の絵画を理由に戦争が起こることなどなくなってしまった現代における…。

いつも以上に暑苦しくなった上に偏りまくって考察というより個人の主張っぽくなった。
リリィのはあくまで「創作者」としての自分にあてはめることで自戒にできる、使えるということ。そも虚無性なんてものは有限性と同義で永遠性と対極にあるもの、つまり森羅万象に当てはまるもの。それを逐一虚しいからという理由で投げ出していれば人間生きている意味は消失しますね。絶望のカンタン☆レシピ。行きつく先は死である。その虚しいという感覚は生きている人間だからこそ得られる感覚なのに。このことをただの皮肉としか捉えず、虚しいから生きない方がいいというのはなべて滑稽。そこへ「虚しくても」にはならないじゃないかという反論が来るならさらに滑稽。事象をつなげて考えずにはいられず、筋が通っているに過ぎない解を見つけて真理に至ったつもりで慢心してしまうのも中二病の典型だろう。真理など!

※上記は映画『リリィ・シュシュのすべて』についての考察であり、特定の文化的活動を評価・批判するものではありません。