case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,9,11 PM10 【映画録『ドッグヴィル』】

ドッグヴィル
原題:Dogville
デンマーク映画、2003
監督・脚本/ラース・フォン・トリアー

トリアーオタクにはなる価値がある。
映画芸術界においては常に鮮烈で話題に事欠かない彼の作品の中でもこいつはひときわ挑戦的だ。やってること全部が何かしらに喧嘩を売っている。ロックのように痛快にではなく辛辣にだ。
まず、というかこの映画が語られるにあたって必ず触れられるのがその手法、異様なセットだ。舞台はアメリカの山奥っぽいとこのどん詰まりにある人口20人弱の村、時代設定はギャングの闊歩してる大恐慌時代とのことだが、スクリーンに映し出されるのは広い体育館のような空間に建物の間取りと配置を床に白線を引いて示し、最低限の書き割りのようなセットが置かれているだけ。本当に必要最低限の、登場人物たちが日常的に座る椅子や使う机、物語の進行上必要な戸棚や黒板や柵やベッドがあるだけで、使わないとあっては壁一枚すらも用意されていない。扉にいたっては使うにもかかわらず、ない。出入りするときはパントマイムする。すなわちドアノブがあるフリをしてドアノブをひねり、扉を開け閉めするフリをする。近いものは演劇のセットだろう。だが実のところ演劇のセットすらほど遠いと言える。その演劇のリハーサルか練習用に必要な大道具だけ持ち出してきたと言わんばかりのスカスカぶりだ。役者たちはそんな唯一のセットの中で、あたかも本物の村が存在しているかのように登場人物を演じるのである。もしかしたら村そのものを人が演じなくてはならない状態だったと言っても過言ではないのかもしれない。
ネタバレを気にしないでもないがストーリーの骨子そのものは一応単純である。全編の詳細はウィキペディアに掲載されている。プロローグを含めた全10章で構成され、各章の大まかな出来事は章の冒頭でナレーションにより暴露される。物語の意外性に重点を置く作品であればあまり使われない手法だろう。ちなみにこのナレーションだが、劇中でも絶え間なく出てきて登場人物たちの隠し事から心理まで必要なことは子細に説明してくれる。ミスリードを誘うようないやらしいものでもないようなので(まずミスリードのしようがないほど子細だ)、観ている側は素直に耳を傾けていれば、物語の展開についてあまり深く考え込む必要はない。あくまで重要なのは内容であり、すなわち何を描写し、全画面を用いて何を言わんとしているかだ。
結論から言えば性悪説の上に立つ、人間の本性についてのお話だ。さらにいえばその本性を御する道徳とは何か、どうあるべきかを問うているものと思われる。若干前者について自分は食傷気味だと気づかされたのだが日本文芸界で坂東眞砂子岩井志麻子ムラ社会を描くことでやってきたこととあまり変わりない。言ってしまえば「みんなで仲良く」「助け合いの精神で」などといった、頭にお花畑が広がっている人間が謳っていそうな道徳など脆く無意味に近しいものだ、といった一つの真理を持ち出している(無意味かどうかはともかく、人間の人間性の脆さに比例して脆くなるものであることは事実だろう)。
さらに後者において、その脆さを補完するものは権力である、ならば権力はどうあるべきか、という問いがなされている。それが問いに終わる問いであることについては本作の側も自覚的であることだろう。ラストでモーゼスが一瞬見えるようになるシーンでのナレーションがそう物語っている。
ただし、結論のうちの一つを“行使”することによって示しはした。その示唆そのものが問いの存在を明らかにしているのでもあるが、まあそれはともかく、本作が示した結論は「支配する権力者」に該当するものすべてに、彼ら自身にとっての「露悪」に当たる可能性のあるものを迫り請うものだ。喧嘩を売っていると言ってもいいだろう。道徳的な正義が欺瞞で傲慢で、対照的な非道徳の執行が権力の責任だとはっきりのたまった。終幕前の会話を拾うだけで言えてしまうほど瞭然なテーマだ。こんなものを突き付けられて議論が起こらないはずがない。そこまでトリアー監督の読み通りだとしたら、やはり彼は曲者である。そうでなくても変態だろう。あけっぴろげにではなく、静かに笑うのが似合う。