case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,9,23 AM1

余命絶賛削減中である。能動的ではないが解決を能動的にしないとマッハ。

kyokucho1989氏の記事を参考にさせてもらって背景から諸々デザインをいじってみたはいいが、背景=ノルシュテイン、タイトル=映画『The Mist』の怪物、そしてプロフ画はモーパイと、他方に趣味を広げている様を浅はかに披露せんとするかのような痛々しい全体像を結ぶ結果とあいなった。あらゆる底の浅さを披露しながら気取ってばかりいる。愚童らしくて大変良い。


MMD
ニコニコでsera氏を初めとした東方ちびちゃんシリーズにハマるかたわら。

(ていうかはてなはニコと連動してくれんかな。つべも愛用しているとはいえ…)

スクリーモって初めて知った。これはいいものだ。
動きはドラムがやばいです。


原作は一時期弟が持ってたのを2回ほどだがプレイしたことがある。クジャ様がトリッキーで使ってて楽しかったな。
この中ならおぜうかせんとさん使いたい。


あいかわらずにがもんアリス最強。ちび化でさらに勝てる気がしない。親子丼で観る前から死んでいる。
他のちびちゃんシリーズまでここで紹介してるとキリがないのでオミット。くり返し見たいものしか入れるまいとちびちび増やしていたニコニコのマイリスがいきなり倍に膨れ上がったからなあ。

あとはMMDのスキンも使ってるつながりでGTAの小悪魔さんもようやく全部観終えた。最初の頃は暇つぶしにちょうどいいかななんて妥協レベルで観ていたが、やりきってなかなか悪くなかった。というか終盤に行くにつれてシナリオ含めあらゆるクオリティがぐんぐん上がっていったのにはちょっと感嘆。長期連載漫画の絵の変遷を追うかのごとく。


タオルケットをもう一度
しばらく止まってたのをクリア。これくらい雰囲気を大事にしてくれるゲームならお金出してでもやりたい。ていうかマザーやりたくなってきた。
終盤に消化不良多い。脳内補完推奨と言ってもいいけれど、中盤までと比べるとその割合がその…。
ちゅんのところでいろいろやりきってしまった感はある。あの章に関しては、やはりシナリオには哲学で泣かせに来てほしいと痛感させてくれる逸品。


/オフセット

コンセプトをとがらせすぎてターゲティングが迷子。
そもそも作品自体がメタ的なギャグであることとコメディシナリオは両立させちゃいけないような気がしてきた。少なくとも低俗路線は失敗だったか。
まあそもそもあれでまともな合評しようぜって方が無理があったのだろうが。少なくとも今の身内の空気じゃ殲滅してしまいかねんと思っていたら脱兎にて終了でござった。
無難さしか教えてこなかったこちらにも責任はあるだろうがねえ。難が売りです、さあ難癖付けてみろって、自分も上手く対処できる気がしない。

それは別として、サイキンノワカイモンはたかが100点より上を目指す気すら起きないのかねやっぱり。こっちゃそんな作品に興味はないんだが。


/徒然

発信がネットを形作るのか、ネットを形作るために発信をするのか。以前も少し触れた。
答えはどちらでもありどちらかではないのだろうが、それにしても後者のみが当然か正義であるかのようにささやかれている気がしてならないことが時々ある。いや厳密には後者の中でも行為という要素のみが抽出された上での盲目的肯定、崇拝だ。無論沈黙が美しくも力にはならないことぐらいよく知っているが、それにしても発信によりネット=コンテンツを作れさえすればコンテンツ自体はどんなものでもよい、コンテンツを作ること自体が目的で中身(発信の中身)はどうでもよいという2ch並の開き直りばかり横行して見えるのは自分の目が曇っているからか?

いやさ、やはりジレンマとして解決はしがたい。しかしながら横行はネットの中だけでなくリアルにも及んでいないかと私の懐疑は考察として膨らむ。蒙昧ではあるかもしれないが妄想ではない。

要は発信が容易になりすぎたと思うのだ。いやこれは一面的な見方でしかない。だが言い換えれば発信が容易になるにつれて顕れてくる弊害もあるのだろう。最近それを知覚する頻度が大きい。

発信において問われるべきは有無だけではない。沈黙の価値、もとい余白、何より表にあるものの質と、また価値だ。またそれらは自らだけが舌に乗せるものとして値札をつけても全く意味は生じない。受け手の胃に落ちた先でようやく決まるのだと自覚せねばならない。

これぐらいが道理だ。個々人は知らない、勝手にするがいい。だが巨大なネットのうねりが道理に沿わないのを直視していると果たして心地が悪くなる。さらば今日とて蔑視へ逃げたい。


/徒然2

しかしながらだ、やはり個人のレベルだと発信の目的化のジレンマはいかんともしがたい。前項のようなことを言っておきながら、このブログはあらゆる面で観るものを想定はしつつもサービス精神はあまり旺盛とは言えない。そもそも被観覧の想定は職業病からの惰性だ。

ただ、前項のようなことを言っておきながら、発信なくして評価などありえないというのも我が信条だ。発信は発信されるまで存在しないのだから、存在しないものをどうして評価できようかと考える。少なくとも生まれくる前のものを無価値と決めつけるのはまことに愚かなことだ。

ならば発信する前から無価値だと分かっているものも発信すべきか?それは否だが、しかし発信はするかしないかが極地ではない。何しろ内容があるではないか。代替、改善、改良をすることもできるし、時期を選ぶことも人間はできる。また代替は、沈黙と代替することも場合によっては可能だと気づける。条件さえ揃っていれば沈黙もまた発信となり得るのだ。沈黙が発信となりえないときは、発信の価値より先に意味を問う。
一つだけ断言できることは、観測できるものはたとえ無価値でも無意味であることはないのだ。無価値なものは時に不快の種として人に影響し得るし、時に使い捨てカイロのように一時の安寧をもたらす。価値とは永久性や将来性を基に問われるものだが意味は違うのだ。ゆえに意味を問い、発信する前に代替や改良を考える。

これは「発信」を「作品」と置き換えて常々自他に言い聞かせているものだ。少なくとも発信をしないことは、作者には「沈黙」を意味づけるが、作品には何も意味づけない。作品は発信されて初めてまず存在を得るのだから、存在しない状態で価値を問うことは愚かなのだ。駄作か傑作か、どちらかに向くよう改善し改良しあるいは代替置換することは発信前にいくらでもすればよいが、結果が確定するのはあくまで発信後。結果が見えていることを理由に作品をお蔵入りさせてしまう者は常に軽蔑の対象である。

ただし、発信にそれが「至らない」のであればこの限りではないだろう。また、媒体によって「〆切」等の時間的な制約が存在する場合もあり、機会を選べないことも珍しくないため、一概にいうことはできない。