case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2012,10,5 PM4【映画】

阿修羅城の瞳

日本映画(松竹)、2005
監督/滝田洋二郎、脚本/戸田山雅司川口晴

阿修羅城の瞳 [DVD]

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見えている地雷を踏みに行くだけの簡単なお仕事。いや地雷というほどではなかったけど。
ジャケ裏のスチル見た時点である意味めんどくさそうな予感はしてたんだ。これってもしかして演劇を映画化しました的なやつなんじゃなかろうか。ていうか衣装やセットのセンスがどう見ても新感線です本当にありがとうございます。前情報何にもなしに前回の13アサシンズと同じく時代劇・サムライ・チャンバラが観たい一心で借りてしまったのだがこの予想が悪い方にドンピシャする。
そもそも何だ、素人でもわかることだろうが、映画と舞台演劇とはよしやどちらもビデオで観賞したところで互いに別種のメディアだ。その後者をそのまま前者にアレンジしたらいろいろ酷いことになるのは目に見えている。何より与えられるリアリティと求められるリアリティがメディアごとに違うのだ。とある演劇論によれば舞台上のリアリティは観客の脳内補完に多くを頼ってよいことになっている。言い換えればリアリティに欠けているところも観客が脳内保管・補正を概ね能動的に行ってくれるのでそこまで気にする必要がないということだ。この演劇の文法が映画においてはまるで通用しない。リアリティについては映画の側がそっくり丸ごと与えそして保証することが求められるからだ。脳内補完はどちらかといえば内容について観客が自分の中で広げるために行われる。演劇でなら普通に認められるはずのことも映画では許されない場合がほとんどだ。
だが、実を言えばこの映画、「演劇を映画というメディアで表現した」という意味ではかなりよくできている。ここで単に「演劇を映画化した」「演劇の台本をもとに映画を作った」と言ってしまうから角が立つのだ。本作はすなわち「演劇風映画」という新メディアであって、映画というくくりだけで観てしまうとまず楽しめない。この理屈は多くのミュージカル映画とも同じだ。本作は「映画」として観るしかない場合においては非常に頭の痛い作品であり、演劇に理解のある人間でなくては楽しめない作品だといえる。映画というくくり一辺倒でこの映像作品を観ていたら、斬られ役が斬られてからジャンプし血を噴き出しながら橋から落ちていく様を見て飲み物を噴き出すことだろう。
それとは別で、おそらく原作からそうなのだろうが、阿修羅復活の手順をレシピにまとめてみると非常にまどろっこしい上にうさんくさく思えてしまうのだが、せめて説得力とかどうにかならなかったのだろうか。このへんも演劇なら許される類のアレだろうか。阿修羅の設定ありきの脚本なわけだが脚本に合わせて都合のいいように設定詰めた感がありありなのもちょっとどうかと思った次第。