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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,1,30 PM2

純日記

またなんかコミュニケーションの壁にぶち…………いや、ぶち当たってはないなあ。ことあるごとにどうしても引っかかるし引っかかることもあるってわかってる抜けないトゲみたいなものだもの。ちょうどまた引っかかって、まとめるにはちょうどいいきっかけだなあ、と思い立って記事を書く次第。

赦すことが相手の向上の機会を奪うのではないかという葛藤には、常日頃から悶々とさせられている。いやさ、赦せる、スルーできるような些細なことについてがその概ねだ。

赦す行為のメリットはいろいろある。雰囲気は悪くならないし、こちらは器の大きさを示せるだろう。それで守られるのは相手や周りの居心地とこちらの自尊心。卑近な物事に煩わされたくないと思うのはおそらくどこの誰も同じだ。一方で、その刹那主義の価値は逐一問わざるを得ないというのがこの話だ。

赦さない行為には非刹那的なデメリットも伴われる。あいつは細かいことばかり気にするやつだと思われ、気難しいと敬遠されるのはただの孤独より耐えがたい。そういう恐怖に持続的にさいなまれるのもつらいだろう。せっかくそれを押しても、相手の方にはそれで離れていく者、潰れてしまう者もいるものだ。現に複数人そうなった。若い頃は「そういうやつはそれまでのやつだったということだ」などと切り捨て御免を掲げていたが、もはや根が小心者であることを隠せない歳にもなった。

赦す赦さないとやたら上からものを言うようだが、実際勝ち負けに置き換えれば勝ちの立場に立てる機会を得て、はたして勝負に持ち込むべきかという葛藤に近い話をしている。勝負をする必要は絶対ではないのだが、勝てると分かっている試合で相手を負かす意味があるかどうかを問うている。

無論、勝利が心地よくて仕方のない者は勝手に勝負をするがいい。私はその根性は腐り果てていると思うので見向きもしないが、残念ながらすでに幾人もそういう下衆を見る機会を得てしまった。叩きのめすに値しない者を叩きのめしたりのめされたりと、どうしようもなく不毛だったものだ。

私が赦す赦さないの葛藤に拘泥しているのはこの不毛が嫌いだからでもある。相手を負かすということは相手に向上の機会を与えることだ。これよがしに与えることに快楽を覚える趣味もない。小心ゆえに、むしろ機会を奪うことを忌避するがゆえの葛藤なのだ(だから最初から見込みのない下衆など、相手にすること自体こちらの落ち度だ)。

とはいえそこへ潔癖の性も入り込む。気位ばかり高い私の自尊心は甚だ天邪鬼でわがままだ。「相手のため」などという理由を掲げること自体が、結局は自分の立場を守るためのようで卑賤に思えてならない。「自分の卑賤を耐えてあえて叱責するのだ。君のためだ」と標榜するのも、暗に自身の勇気をひけらかして評価を高めようとする行為に思えてならない。相手が実際にどう思うかではない。私に私がそう見えて仕方ないからやる方ないのだ。

卑近なきっかけでなければいいとも思うかもしれない。葛藤など芽生える余地もない、誰が見ても同情されるような事態においてなら、怒責叱責も当然とされるだろう。
だが、そのような機会はそうそう向こうからやって来るものではない。そもそも私のような者が叱責を手段に用いる時点で相手は下衆ではないのだ。向上や改善の芽があると信用を置いている者。それは同時に、そういった大きな事態を起こさないと信頼をしているということでもあり、よしんば大きな事態が起こったとしても、彼彼女であれば収拾に尽力するだろうと期待を寄せているということでもある。信頼も期待も真っ向から裏切られたとあれば話は別だが、そんなことは下衆とわかりやすい下衆と揉め事を起こすよりはるかに稀有なことだ。

塵も積もれば山となる。些細を槍玉に上げているのはこれがあるからだ。実は一度掃き清めるだけで山となるのを防げたものを、些細なことに拘泥するのを忌み嫌い、御調子を取るのに傾注したことでうず高く見あげるほどになり、ついに床を抜いたとあっては後悔を後に立たせている場合ですらなくなる。それを大袈裟と笑うか否かという話でもある。梁まで歪むことはそうそうあるまいと私も楽観してはいるが、不安は募るものだ。だが梁をつついて天井裏の家守を猫に食わせたくはない。座敷童も逃げ出す家では住むにたえない。逡巡だ、逡巡だ。

腹の虫がふてくされているとつい葛藤を飛び越えることがある。事態が収まれば虫の居所が悪かったのよと引き下がる。だが道草を食ったか食わなかったかというだけで通る道は同じなのだ。赦すに至ろうと赦さないに至ろうと、赦すか赦さないかを選ぶプロセスが存在した。何も言わないということは我慢をしたということに過ぎない。無論、下衆には我慢することなく無言を選ぶ。それとの区別はさすがに相手に委ねざるを得ないが、概ね身内には自分が下衆でないという自覚を持ってほしいものだ。

人心の読み取りにはひとかどの自信がある。悪気はないが小賢しいものと、そうやって保身を孕むものには特に敏感だ。素人芸ながら紙の上ではそういう卑近なものばかりを取り沙汰にし、弄び、こねくり回したきた身である。主観と客観を比べ続けてきた身である。間を持たせるために言葉を弄さず、耳をそばだて、言葉を紡ぐ役を人に任せることへ神経を鍛えてきた身である。多様な人心と価値観のありようを享受してきた身である。偏見を何より排し、誠実と高潔について真理を追い求めてきた身である。思ったより阿呆かもしれない。すべてが未熟だ。がしかし、人の腹の幾重もあるのを二重までなら見透かせる。人心など分かりきった上で、その精神性ではなく現実行為を赦したり赦さなかったりするのだ。精神性を赦さないのなら下衆と呼んで切り捨てる。だからあまり侮ってくれるな。そうひとこと怒鳴って、相手に真実侮る害意がないのならそれで済むのかもしれないが、自身が下衆なので遠慮が絶えないのは申し訳ない。