case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,2,9 AM1 【映画録『カナリア』と『プリンセストヨトミ』】

テストやら卒論やらに追われてても映画は観るぜー。週一の気分転換だもの。

ただし先週今週と感想書く気にもならんような作品が連続したのは、個人的な状況の問題から幸いと言ってしまっていいものかどうか。ここに感想書くのはただの個人的な習慣だからサボりたければサボればいいわけだし。
うん、やっぱり事前のリサーチなしにレンタルするのは、よくない(キリッ


カナリア [DVD]

カナリア [DVD]

カナリア

日本映画(シネカノン)、2005年
監督・脚本/塩田明彦

『プリンセストヨトミ』

日本映画(東方)、2011年
監督/鈴木雅之、脚本/相沢友子

この二本、毛色も何もかもまるきり違うんだが、それぞれに私が嫌いな日本映画を体現してしまってくれている。評価云々以前に嫌いなものは嫌いなんだが、どちらもそれぞれ別の要素の典型例みたい。

まず、前者『カナリア』だが、ひとことで言って、説教臭い。ひたすら説教臭い。そのやかましいの何のって。表現を差し置いて、という言い方は間違っているのだが、何しろ表現を用いて説教をタレてくるのだから表現は差し置かれていないのだが、表現を言葉としてべらべらべらべらと無言で語りかけてくるのだから、鬱陶しくてしょうがなかった。
「実話を元にした」系の作品で、少なからず一般向けにしようとしたものにこの傾向が邦画は大きいような気がする。生きるとは何か、自分とは何か、赦すとは。ううん、わかるよ、テーマって大事だね。でも基本的に言ってることは当たり前のことなんだよね。当たり前が一番難しいんだよっていうのもどっかで聞いたことがあるテーマだね。難しいのも当たり前だね。そんな当たり前のことを大仰に語られると、私はこう思うわけだ。言われなくてもわかってるっての、と。そんな当たり前のことをくどくど聞かされるのが好きで映画を始め人の創作を観ているわけじゃあない。説教をタレたければもっと斬新で、観た人が新たなステージに立てるくらい痛烈な回答を引っさげてこいよと思うわけだ。
無難で聞き飽きた回答だから悪いと言うのもあるが、やはりそもそも説教臭い姿勢が気に入らない。底も浅いのに何かを言わん云わんとしている姿が丸見えで、要するにあざとい。何よりオウム事件が元になっていることだ。本作が何にもまして雄弁に語ってきたのは「あのおそろしい事件の裏にはこういう悲しい感情があったのかもね」という誰でもできそうな浅い妄想だった。返す言葉は「ああそうだね、悲しいね」で終わる。まったくもってひとことで言い表せない感情ではない。それをまたくどくどくどくどと。
宗教に縋る人間を精神的弱者・未熟者と定義するなら、このような浅いところでうろうろしている人間たちを描くのは一応合理的と言えなくもないし、かなり趣味が悪いが皮肉は効いている。だがそんな穿った見方までしなくてはいけないものだとしたらそっちの意味でウンザリするし、もっと素直でスマートに人の愚かさを描いた作品は他にいくらでもある。何より、やはり実在の事件を指して「愚かなことだ」と標榜するのは何様だという感じがしていけ好かない。
そしてラストの白髪である。あれを見た時点で私はこの作品のきな臭さというか、製作者の面の皮の厚さやら尊大さやらについに見切りをつけた次第。言いたいこと全部言って満足した?ああ、そう、ふーん。で、貴方がこの映画を手段にして語り尽くした大仰な哲学か何かのようなものに私はまったく心惹かれないのですが?正直あの展開は、結末にショックを受けた主人公が作者も大好きな中二病に目覚めて数時間でカミワザブリーチをかけて走ってきたというギャグ路線にあの瞬間から転向したんです(キリッ)と言われた方が断然納得できる。いやそれはそれでナンセンスなのだが嫌いにはならなかっただろう。ここで例に出すのは松本監督に失礼だが『大日本人』のようになる。そうなったら私は考えるのをやめる。

後者、『プリンセストヨトミ』はまさに昨今の邦画に多い、文法もへったくれもなしに演出で誤魔化して感情移入させ、性善説大前提でしゃにむにまるめ込んじまえばいいんだよこんなもん、といわんばかりの、要するに映画本体や脚本にまったく何の力もない映画である。いや、厳密にはあんまり言いたくないが、役者以外を興業のアテにしているとは欠片も思えない作品だ。ていうか、ていうか、そもそも、脚本全然意味わかんないだろこれじゃあ!!!www
もう、ね、アンチでプゲラな路線で解説していけば逆に面白い記事が書けるんじゃないかっていう、もう脚本からひいては映画の存在自体がギャグ、メタいギャグ、ってレベル。残念ながらそんな時間も体力も今はそんな余裕がないのでオミットさせていただくが、まさに海外のB級ホラーと同じ方向性で笑える。
本作のような作品に憂慮されるの性善説が大大大大前提としてあり、文法も完全にそこへ依存しきっていることだ。情に訴えかけて押し切れば多少(?)の無茶は通る、相対する側はなんとなく聞く耳は持って、自分の中にわざわざ納得する理由を探し出してそれで和解する。そんなゆるぅい価値観と思考回路を二時間かけて観賞してしまった日には、とりあえず人生という時間全体の大きさを引き合いに出して二時間なんて小さな損失だケチケチするなと自分に言い聞かせるのにベッドに潜り込むまで一生懸命である。

映画不信になるからマジでこの手は回避したい。ていうか『カナリア』のようなタイプには洋画では当たらないんだよなあ、なんでかなあ。しかし洋画含め今年は年始一発目の『リトル・ランボーズ』以来全然あたりを引かない。まだひと月しか終わってはいないがいいかげん秀作に出会いたいな。