case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,3,4 PM7  【映画録『ノー・マンズ・ランド』】

ノー・マンズ・ランド [DVD]

ノー・マンズ・ランド [DVD]

ノー・マンズ・ランド
多国籍映画(ヨーロッパ)、2001年
監督・脚本/ダニス・タノヴィッチ

美しき運命の傷痕』の演出力から気になっていたダニス・タノヴィッチ監督自身が脚本を手がけ、カンヌ脚本賞をさらっていった本作は同監督の処女作でもある。雰囲気の違いからか『美しき〜』に比べてことのほか堅実な撮り方だった感は否めない。しかし、衝撃的だったのはその内容と筋書きだ。カンヌ脚本賞やはりハズレはない。正直まったく注意していなかった戦争映画としての完成度をそこに見せつけられた。

【あらすじ】
霧の夜、ボスニア軍前線に赴いた交代要員8人は、双方の前線の間の無人地帯(ノー・マンズ・ランド)のセルビア軍前線寄りに迷い込んだ末、夜明けとともにセルビア側からの一斉射撃を受ける。そのうちの2人、チキとツェラは両軍中間にある無人の塹壕線付近まで逃げるものの戦車砲で吹き飛ばされる。その一人、肩を撃たれたチキは塹壕の中で意識を取り戻し銃を拾って帰り道を探すが、そこへボスニア側の意図を探りに2人のセルビア兵がやってくる。(Wikipedea)


私の好きな戦争映画といえば、『戦場のピアニスト』『ヒトラー最期の12日間』『火垂るの墓』『シンドラーのリスト』『バティニョールおじさん』『イングロリアル・バスターズ』(いやこれは入れるべきか?)等々だが、本作はそれらのどれとも違った角度から戦争の無情さを取り上げたものだ(ボスニア戦争が題材という点も初めてだが)。また、ある意味無常の中における戦争の地味さを体現しているとも言える。

【以下ネタバレ含む】

90分映画の本作はハリウッド映画のような感動的なドラマもなければドイツやフランス映画のような人間哲学があるわけでもない。思想といったものを排除していった先のある種の自然主義に近いような気さえする。結論から言えば救いのない物語であり、救いは失せるべくして失せていた。救いようがなかったとも言えるが救う必要性から見いだされなかったとも言えてしまうだろう。これは正直観てもらわないとわからないと思うが、そんな何もかもなレベルで無情である。わざわざ最もネタバレになるようなことを言えば、誰も幸せにならないのが当たり前のように最初から決まっていた。そして思い返せば全部が全部そういう構成だったのだ。脚本の動かしようのなさを完成度というのならばまさに本作は無上と言えるだろうが、その圧倒的難攻不落ぶりは観る者の精神力を根こそぎ奪っていく。その観終えた後の脱力感たるや。

登場人物として核となるチキ(ブランコ・ジュリッチ)とニノ(レネ・ビトラヤツ)が互いにもっと賢く動けば、よい結末を迎えられたかもしれない、という意見もあるだろう。だが舞台は戦場で最も緊張し、彼らも互いに疑心暗鬼を抑えられないノーマンズランド(中間地帯)だ。すべての人間性は自然と否定される。さらに彼らは英雄ではない。誰も一介の弱々しい人間だ。哲学すらない感情論にばかりつき従う。そこにいったい何の不自然があるだろう。

これを認められない視点に果たして全く触れていないわけではない。現代の戦場に介入する要素として忘れてはならないのが国連とマスコミだ。ただしどちらの風刺もしかし“仕方ないもの”として描かれている点はとてもほどよい。というか、もはや風刺や揶揄と捉えてしまうのは愚直もいいところだろう。特にマスコミ周りがそうだ。カメラレンズやスクリーンの向こうに人が期待するものは何か。感動的なドラマや栄光だ。あるいは悲惨さを訴えるのにお誂え向きの、ハッタリの利いた悲劇だ。笑えないジョークはお呼びではない。だが、実際の戦場にあるのは、人間性をひたすら愚昧の炉へ放り込むだけの、まるで笑えない冗談のようにセンスのない淡々とした悲劇だ。子供じみていて絵にすらならない。本作の舞台となるノーマンズランドで起こったとある事件は、まさに徹底的にそれを体現している。治安部隊が手を離し、マスコミですら目を背ける。いわんや、実際の戦場に渦巻く感情も知らずに叫ぶ反戦が、この舞台へ何の意味をもたらせるだろうか、と。

現代戦への介入要素としてマスコミが登場するのは当然と書いたが、本作の脚本にとっては巧妙にして不可欠な要素でもあっただろう。実地のリポーターと、それを通してしか戦場を見ていないプロデューサーの二つの目線があって初めて、本作が最初にするべきドラマ的必然性の否定が成し遂げられる。そう、マスコミが登場したことで、この作品はもはやだれも救われてはいけない物語に昇華したのだ。マスコミは国連の治安部隊と共に自発的にカメラを畳んで国に帰る。これが本作最大級の“笑えない冗談”でなければ何だというのか。

実地を知らずにというのであれば実地に赴けばいいのか、という考えも本作は否定している。主要人物たちは中間地帯の塹壕に取り残された兵士で、一人(フィリプ・ショヴァゴヴィッチ)は死体と間違えられた挙句敵兵によって体の下にジャンプ式の地雷を起動状態で設置されている。ここへ直接マイクを差し向ける距離までリポーターは近づいているのだ。にもかかわらず、リポーターに兵士たちの心境が伝わる様子は全くない。いや、リポーターは何とかそれを知ろうとマイクを差し向けたが、兵士の側がそれを突っぱねたのだ。当たり前だ。兵士の側は感じ取っていた。物理的な距離の問題ではない。実際の立場というのは体験した者にしかわからない。むしろそれを見聞きすることで理解できるという、その考えの傲慢さが溝を深めた。もちろん兵士たちがそう決めつけていたというのも愚かではある(ツェラ(フィリプ・ショヴァゴヴィッチ)はその愚かさを感じ取ってうんざりしていたようにも見える)。だがチキとニノは序盤で言い争い、互いの立場の違いからこの紛争への見識すら遠く離れていることを両者ともに思い知らされていた。この上で兵士ですらない者に何がわかるというのか、というのが実際自然な感情の走り方だろう。最初に言ったとおり、ここで誰かが賢ければ、という反論も理想論でしかない。

なんというか、人間の人間性というものに大いに期待しながらこの作品を観ると、きっとその人は憤りを隠せないだろう。人間を馬鹿にしている、と。実際、人間は愚かなものとして性悪説的に取り扱っている本作ではあるが、しかし小馬鹿にしているといった風合いではない。とかくその性悪説のようなものを直視して、というより、直視せざるを得ないように脚本を練りあげたのではないだろうか。少なくともそこから助けを求めて喘いだ跡は見当たらない。非常に冷静な心で凄惨と苛烈を賛美しようとすれば、きっとこのようになるのだろう。笑わせるつもりの微塵もないジョークほど強烈なフィクションもないものだ。

ラストのこの問いへ答えるカトリン・カートリッジの台詞は、たまらなく象徴的だと思う。