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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,3,28 PM10 【映画録『八日目の蝉』】

オレンジマーマレードジンジャーとかいうキマイラなジャムを買ってみた。においが多少きついけど、マーマレード独特の後に残る皮の苦みが軽減されて悪くない感じ。代わりに口に残るにおいはコーヒーでご和算。願いましてはー。



※写っているのは映画化記念カバーつけた原作の文庫ですが、この記事はその映画版についてです。紛らわしくてロイヤルサーセン

あと、いつもどおりネタバレを含みます。


『八日目の蝉』
松竹映画、2011年
監督/成島出、脚本/奥寺佐渡
(第35回日本アカデミー賞受賞作品)


本棚に積んでる原作をついに読まないまま映画を観てしまったのは単なる気まぐれだが、親と子、特に母子、中でもひとくせあるその関係を題材にされるとそもそも私は弱い。そんな私の期待する心を、例によって邦画不信を孕む私の予想に反してど真ん中ストレートで突き抜けていってくれた本作。好物を前にしてやや盲目になっている自分を感じないでもないが、そうでなくても大衆向けの域を出ない作品ではあるだろうが、凡百とまとめたいほどしょうもないホームビデオチックな邦画の山から掘り出すには少なくとも値するはずだと言いたい。
本作は別々の時間にある二つの物語が交互に併行して語られる。本来の主人公・秋山恵理菜の幼少期において彼女を誘拐した野々宮希和子を主人公とした物語と、成長した現在の秋山恵理菜の物語だ。これは伊坂幸太郎のフィッシュストーリーのように全く関係ない小編同士が最後に結びつく構造ではない。前者は野々宮希和子によって人生を狂わされた恵理菜のその当時にあたる回想を野々宮の視点から描いているに過ぎず、後者は恵理菜が野々宮希和子と同様に不貞の子を宿したことから始まる、今を戦うために過去を探しに行く旅路の話だ。その答えは野々宮の視点で順に示されながらも、我々は恵理菜と共に旅路を歩み、過去と現在の接点を探す。
野々宮は犯罪者だ。彼女が現に狂わせたのは恵理菜の人生だけでなく、関わった人々の幾人かを裏切り、彼らにも思い荷を背負わせた。そこを顧みずに彼女についてはかばかしく同情を求め、大仰な救いを与えようとする展開があれば本作は凡百の下の下に打ち捨てるべきものとなっていただろう。私がそこから掘り出すに値すると述べたのはまさにそうでなかったからだと言える。本作のオープニングは二つの物語のどちらの時間でもなく、逮捕された野々宮の裁判のシーンから始まるが、彼女はそこで最後に「ありがとうございます」と告げ、現代という名の時間軸から退場する。彼女が存在するのは過去、恵理菜もとい薫の母親たらんとしていた時間軸のみである。これはまるで、野々宮が生きていたのは彼女が薫の母親であったときのみであり、その罪深い母親ごっこが終わりを迎えた瞬間から彼女は死んだのだと言わんばかりの演出だと私は思った。まさしく母親としての“殉教”を野々宮希和子に見たような気がしたのだ。これはかのトリアー監督がパルムドールを勝ち取った『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のセルマを思い起こしての感想である。セルマは母として生き、母としてある以上死なないと言い切った。野々宮は母として生きる機会を与えられ、母としての生を失った瞬間死んだのだ。秋山恵理菜の実母は彼女の敬礼に死の呪詛で返した。だが野々宮はすでに死刑だった。

犯罪者としての野々宮に同情の余地はないと言った。だが恵理菜、いやさ薫にとっての野々宮は同じだっただろうか。
恵理菜はそれを探しに行く。薫だった頃の記憶を探しに行く。それは同情の種を探しに行ったのではない。あるいは恨みの根源を暴きたかったのでもない。かつてそばにいたもの、自分の隣で生きていたものの正体だ。結論から言えばそれはもう死んでいた。生きている屍は悪しき罪人に過ぎない。どこかで死んでいるそれは何で、どこにいるのか。恵理菜は徐々に見つけていく。最後には探し当てる。恵理菜についていく我々も共に見つけていけるはずだ。掘り返した墓の下に青々とした新芽を見出すのだ。感慨は悪くない。墓荒らしもたまには悪くない。

八日目の蝉 通常版 [DVD]

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