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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,6,22 PM1 【映画録『真夜中のカーボーイ』】

じゃあとりあえず時間の許す限り書いていこうか。
と、その前に、面白い映画記事とは何だろう。
概ねいつも文脈以外軽視で気の向くままに書いている(ので長くなる)が、短くまとめようとすると途端に見栄えが気になり始める。
映画レビューとかでググると文字少なめでも読んでて楽しいブロガーさんがときどき見つかるんだけど。最近のマイトレンドはホラー みたことか!とか。
あの人みたいにも書けたらなあ。いや、あれはあれで面白くしようと苦心して時間もかかってるらしいからいろいろトントンなんだろうけど。

まあ、いきなり自己流を改めるのもな。ただし、本当に書きたいやつ以外はこれからはゆるめにいきます。うん、たぶん絶対嘘だな。

真夜中のカーボーイ

原題:Midnight Cowboy
アメリカ映画、1969年
監督/ジョン・シュレシンジャー、脚本/ウォルド・ソルト
(第42回アカデミー賞 作品賞)

カウボーイじゃないんかい。タイトルの覚え間違えと思ったら原題はカウボーイだった。邦題がどう見ても自動車少年なんだけど、と思ってたらこの邦題、付けるときに「‘カウ’より‘カー’の方が車を意味するので都会っぽい」という理由であえて‘カーボーイ’としたらしい。いやこれだけ聞かされても何だその寒いセンスはとなるだろうが、作品の舞台はニューヨーク、そして主人公はおのぼりさん丸出しのカウボーイヤンキー。この主人公の自意識過剰な脳味噌を潜らせれば、カウボーイは“気の利いた”カーボーイになるというわけだ。この失笑モノのしょーもないセンスは主人公そのものを指していると言っていい。時代はアメリカン・ニューシネマ。かつてのアメリカンドリームになげかける個人の無力をテーマとしたその一党の多聞に漏れず、田舎者の主人公が歩むのは破滅への道だ。その過程に潜む切なさと虚無感を観て知れば、主人公自身の愚かさを象徴したようなこのタイトルアレンジがいかに皮肉たっぷりで哀愁に満ちたものであるか、ご理解いただけるものと思われる。
ちなみに‘真夜中の’というのはそのまんま、真夜中にしか雄叫びをあげない都会のカーボーイ(本作に敬意を表し、記事中でもカウボーイをカーボーイと表記)の意味だ。
奇しくも以前身内で流行った「言葉の頭に“夜の”と付けるとだいたい隠語っぽくなる(夜の経済思想論とか、夜のハイドロプレーニング現象とか、夜の管理衛生学とか)というしょうもない下ネタと同類のものだ。ベッドにまたがるカーボーイ。いやどちらかといえばまたがられる側か。つまるところヒモ、またはジゴロというわけだ。
本作の主人公ジョー(ジョン・ヴォイド)は、革のジャケットに拍車付きブーツのテキサス・カーボーイスタイルをアイデンティティとし、都会でジゴロのスターになるという大志を掲げてニューヨークを訪れる。本作のストーリーは、このジゴロ志望のジョーとスラム街の‘ラッツォ(ねずみ男)’ことエンリコ・リッゾォ(ダスティン・ホフマン)が、ホストとマネージャーのコンビを組んで奮闘し、敗退し、挫折し、衰弱し、先に書いた通りひたすら破滅へと向かっていくというもの。とかくアメリカンドリームをぶち壊すためのアメリカン・ニューシネマの流れを誠実に汲み、一切の救いがなく残酷。だが問題は、その残酷さがただ憐れまれるためにあるのではなく、ジョーとリコ(劇中でのエンリコの愛称。ラッツォは仇名、蔑称)というキャラクターを見たときそれぞれ奥深く、またどこかしらで必ず自分を重ねて観てしまうところにある。都会の孤独感、志や目的を持ちながらの無力感、自分と向き合うことや未来の不安からの逃避、過去への反発、現在への反発、がむしゃらな前進に見せかけた逃避行、取り返しのつかない選択のこと、やり直しのきかない人生のこと。同情を誘うものや憤るものもあるが、とても語り尽くせない人間性がこの作品には溢れている。
最後、肺を患っていたリコはマイアミ行のバスの中で小便を漏らす。彼とニューヨークを出るために強盗殺人まで犯したジョーは、自慢のカウボーイスタイルをゴミ箱へ押し込んで、二人一緒にマイアミらしいカジュアルな衣装に着替える。「女では食っていけない。マイアミに着いたら仕事を見つけてまじめに働く」ジョーはそうリコに語りかけるが、リコは彼の腕の中で目を開けたまま息を引き取っていた。何もかも遅かった。せめて二人が出会えたことを幸運に思おうと人はするかもしれないがそんなに甘っちょろいものではない。失ったモノは取り返せない。来た道は引き返せない。突きつけられるのはそんな後悔で、それはどんなに前向きになろうとしても癒えることのない傷で、痛みを押して立ちあがれるほど強い人間ではないことはそれまでに十分証明されてしまっている。後詰めの要すらないほどに、何もかも木端微塵の有様で、そういう結末だった。

それにしてもこのダスティン・ホフマン若いなー。この作品が正式な出演作としてはまだ3つ目で歳も30ちょいだからそりゃあそうなんだろうけど、アナコンダとかの頃とはまるで味が違う。アカデミー賞の助演も取ったこのホフマン、きっとずっと記憶に残る。