case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,11,16 PM7 【映画録11-A『藁の盾』】

引っ越し準備でドタバタしている中で間が悪いことに法事で今から京都へ出発しますというタイミングで映画録更新に挑戦していくスタイル。

下書きがあるとはいえ、間に合うんですか?(・・;)

本日のお品書き

【映画録11-A】

  • 藁の盾

【映画録11-B】

  • ランズエンド

【映画録11-C】

三本!

というか、本当はあと二本あるのですが、
ツイッター使わなくなってから本当に記事が長くなり始めたので、
小分けにしていくことにしました。普通に見づらいので。

悪の教典』だけは【映画録7】あたりの収録漏れとして見つけたやつで、
日付も九月になっています。

その頃はまだツイッターをそのままフォーマット代わりにしていたので、
上二つに比べて異様に短いです。あとで加筆するかも。

case.728の映画録は、ネタバレは「もしもあったらごめんなさい」でお送り致します。

11月5日『藁の盾』


  • クズだと思った人間は殺してしまえばいい。
  • まったくそうできたらどんなに楽かと思うことが自分にだって度々ありますが、いったいどんな言い訳を自分にして抑え込んでいるのやら。そう、本作は言い訳のパラドックスのかたまりです。なぜ守るのか、という問いに対して、肯定的な言葉で返せるのはすべて言い訳でいたちごっこだという、目を背けたくなるような題材。三池監督にはもっとこういうの撮ってほしい。
  • クズは殺してしまえば〜といえば少しもう懐かしくなってしまった『デスノート』が思い出されもします。とはいえ、あの作品がこの主張へのアンチテーゼとして出した解答は「どんな大義名分があろうと人殺しは人殺し」という頭ごなしであるあたりは、不殺主義を主人公が掲げる他の少年バトル漫画と大きくは変わりありません。人の価値観における“人殺し”の位置づけは固定です。
  • 本作はこれと似たテーマ性へ“守る価値”という問いをアプローチとしておくことで、価値観の中の“人殺し”が揺れ動く構造として観ることができます。何を守るかは登場人物においても人それぞれでしたが、いずれもその価値と、自分の動物的な感情に足して“殺す価値”とが、非常に不安定な天秤にかかっている。そのうわべで、その天秤自体を最優先で直視してみせている、これまた本質はどストレートな作品です。
  • どストレートながら、天秤の両側に乗っているものは人物によってずいぶん違っていましたし、はっきり見えるものばかりではありませんでしたし、上手に嘘もつくので、観ているうちに頭の中がぐちゃぐちゃになってきます。そうして善悪の彼岸を見つめて混沌に入れあげるのも本作の愉しみ方の一つではありますが、自分は先ほどから天秤と言い表している、思考に基づく価値観の脆弱さと、本能に基づく価値観の頑強さという、二律背反する価値観の連立こそが、本作の示している大きなテーマの一つだと思っています。
  • 人の天秤は、寄り添うドッペルゲンガーのように、本来二つ共存し、互いに影響し合って一つの天秤に見せかけている。一つは本能と言いましたが正確には先入観や経験則などに基づくもので、思考はほとんどショートカットされます。こちらの価値観を“感情によるもの”とよく勘違いする人がいますが、感情はどちらの天秤にも作用する一つのエッセンスに過ぎません。どちらかといえば思考に基づく価値観の方に多く注がれることすらある。いえ、本作はまさにこのパターンで、確かに普段の思考に基づく天秤はもう一方のための抑制・補正役として働くことが多いのですが、こちらが感情の要素が多く流れ込みながら、大きくイレギュラーな動きをすることによって、先入観に基づく価値観の方に多大な“振動”を与えています。
  • 「クズを守る価値」という問いかけだけでこれほどの“振動”を生み出せてしまうということは、本来は少し考えるだけで誰もが気づくことなのですが、安易に手を出すことを非常に躊躇われます。なぜならこの問いかけを扱うことの本質は、「最終的にいかに人の価値観の強固さの方を答えとして示せるか」、より具体的にいえば、「『クズなら殺してもいい』という結論にどうすれば至らずに済むか」という課題を持ちかけることにほかならないからです。
  • この課題をドロップアウトし、「クズなら誰が殺してもいい」というのを結論として出すことは非常に簡単で、少なくとも創作者としては失格でしょうが、人間としては当たり前と言っても過言ではありません。人間の強さには人それぞれ限界がありますし、ぼく自身、まったくそうしてしまえたらどんなに楽だろうと思うことが、生きていれば多々あります。そのくらいその結論は甘い誘惑で、その逆は難しいし面倒くさい。ながら、先に『デスノート』が掲げた「人殺しは結局人殺し」というテーゼに逆らって生きる方が途方もなく面倒くさいのです。思考に基づく天秤は脆弱で、社会の経験則に基づく天秤は強固。それに加えて自分自身がクズにもなりたくないものですから、創作者でない人間でも、この“振動”を真正面から見据えることは極力したくないものなのです。
  • そこへその問いと“振動”をどストレートに突きつけてくるのが本作。たまらない毒気でした。
  • 「クズを守る価値がある」という結論に至るべきだとも一概には言えません。その点本作は落としどころについては、非常にスレスレのところを飛びながら(どうやってもスレスレにならないとおかしいのですが)、ある意味最も秀逸とも言える“混沌”へ着地できていたように思います。いやむしろ、“混沌”という言葉のイメージから受ける不気味で陰鬱としたステージではなく、明るくも暗くもない普遍性に満ちた“人間の領分”に、踏みとどまったような感じです。
  • ある意味これは理想形かもしれません。価値観において一本筋の通った作品というのは美しいですが、その芯がかすんで見えなくなるほど人の天秤を激しく揺らしまくっておきながら、最後に人の領分へ戻ってくる。痛快さを求めると芯を突き抜けるまで伸ばしてさっさと人の領分から逸脱してしまう方が楽しいのですが(外国映画は娯楽でも芸術でもよくそっちへ行きますね)、本作は火薬庫のそばで火の踊りをしながら最後まで抑制的なままです。抑えがきかなくて当たり前のようなものを抑え込んでくるので、吐きそうになりながら観た人っているかもしれません。
  • 本当は組織論的なことを言えば、警察の威信が云々というのもあながち悪い主張ではないと思うのですけどね。日本人は偉い人が立場を守ろうとするとやたら自己中だと批判する傾向があって、本作もその辺にまで喧嘩を売ってはいないのでこの話は割愛しましょう(喧嘩を売ってくれればもっと面白かったと思うのですが、さすがにダブルスタンダードですかね)。
  • 一つ前に戻って、要は吐き気を催すぐらい本作はえげつなかったということを言いたかったのですが、そのぐらい毒々しくて重っ苦しいのに映画としてのエンタメ性を忘れないあたりもブレない三池監督。こう漫画みたいな設定でやらせたらやはりいいものに仕上げてくれる。考えオチ的な終わらせ方をしたがるのはちょっと悪癖に近いと思っていましたが、結論が曖昧であるべきとして曖昧な本作のような作品とは相性が良かったのではないでしょうか。
  • それにしても俳優陣が豪華。そして実力派揃いの名演だらけ。やっぱり一番は清丸を演じる藤原竜也でしょうか。本作は清丸に少しでも真摯な人間味があれば途端にチープな人情劇と化してしまうようなものです(母親の心配をするシーンもありますが、至極唐突で自棄気味なため言い訳じみています)。それゆえ清丸は夢も希望もないほどのクズなのですが、藤原によるその表現には、そういったキャラクターにありがちなデフォルメチックな誇張がない上に、細部まで目を見張るリアリティがあり、画面上に彼がいる限りまったく目が離せないほどでした。
  • 他に個人的な注目は伊武雅刀永山絢斗のふたり。伊武さんは脇役ながらさすがの貫録で、駅のホームでのあのシーンは榊田役のあの人(名前なんだろう)の必死な演技による白熱もありますが、ソロで映るカットでは伊武さんの表情の演技にちゃんと引き込まれます。永山も若いながらいい演技しますね。やさぐれた青侍ポジとして他の実力派俳優たちの間に違和感なく溶け込めています。
  • 全体的に存在感があるのは藤原を除くと奥村刑事役の岸谷五朗。主演の大沢たかおは暑苦しいので落ち着いているシーンではアレですが、監督もそれはよく分かっているのか他の役者に食わせたり背中を映したりカメラを引いたりしてよくセーブされています。そしてちゃんと熱くなる終盤では本領発揮。松島は鉄仮面の方がやはり似合いますが、歳食ってから動きやしゃべりがしなやかになったようですね。本作の役どころでは彼女の目力もいい効果になっています。

【映画録-B】へつづきます。