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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,11,20 AM10 【映画録12『孤島の王』『ザ・マスター』】


まどマギのフィルムは2万円弱に化けましたよと('ω')

こんなの絶対おかしいよ……。

いや、こいつはとりあえず友人たちへの振る舞い酒にでも致しますかね。
誘ってもらわなければ映画を観にすら行かなかったでしょうし。

本日のお品書き

  • 孤島の王
  • ザ・マスター

予定通り、前の残り2本ですね。
わりとなんでも面白い面白いと見境なく言ってしまう方ですが、それでも最近は本当にいい作品にばかり当たって嬉しい限り。

case.728の映画録は、ネタバレは「もしもあったらごめんなさい」でお送り致します。

11月12日『孤島の王』


  • 離島の隔離少年矯正施設が舞台でこのタイトルなら大筋はなんとなく想像がつきそうなものです。さらに予告編を見た限りでは『オリバー・ツイスト』や『コーラス』のような路線とは明らかに正反対でしたし。
  • その雰囲気になんとなく惹かれて視聴。予想は裏切られず、大分見入ってもしまいました。強く胸を打たれるような作品でもありませんでしたがわりと好きな部類です。
  • ちなみになぜか日本での売り文句は、「歴史の闇に葬られた驚愕の真実が」云々となっていますが、そういうミステリチックな要素は皆無です。語り継がれそうにない実在の事件がモデルという意味では「歴史の闇に葬られる」という表現でも間違ってはいませんが、作品的に盛り上がるところはそこではありませんし。ジャンルがサスペンスになっているからという理由で、サスペンスという言葉のイメージだけに頼って映画の内容も確かめずに宣伝を考えたのではないだろうかと疑うレベルでしたよ。
  • そもそも二次大戦の強制収容所関連の作品がすでに溢れ切っている現代に、それよりもっと古い時代(舞台は90年代初頭です)の矯正施設の非人道性や管理者の汚職を掘り起こしたところで、驚愕も何もあったものではありません(ノルウェー的には「うちの国にも過去にこんな事件が!?」みたいな感じでびっくりできるのかもしれませんが)。間違いなくストーリーの意外性は売りにされていないので、ここはあまりネタバレを恐れずに書きます。Wikipediaへ行けばお話の最初から最後まで載っていますが、そちらを読んでしまっても特に損はしないはず。
  • 本作の本当のよさとはしかし何だったでしょう。施設で出会った二人の少年が“王”になるまでの、“王”になるという目的のある物語でもありません。ほとんどずっと二人の少年の目指すところはそれぞれ違っていましたし、他の少年たちも含めて団結や管理者たちとの明確な敵対を描いたもの、ある種の英雄譚のような様相でもありません。秩序のない突発的なクーデターと一瞬の安寧と、大部分としてはそれに至るまでの顛末を淡々とフィルムに収めたものでしかないといえばそうです。少年二人のはっきりした成長譚というにも微妙。
  • 物語をかたちづくる巨大なうねりは、主役である少年二人の中にはありません。たくさんの少年たちによるものというわけでもない。では、彼らを恫喝する管理者の側に実はあったのか。それは、半分正解だと思います。自分が思うに激しいうねりは、あの施設そのものとも言える、少年たちと管理者たちをすべてひっくるめたコミュニティという単位の中にあったのです。
  • 群像劇という言い方をしてしまうのがそれなりに的確かもしれません。作中で校長が主人公の片方に訓戒として述べている、「船乗りなら、規律の大切さは知ってるだろ?この島は一つの船だ(要約)」という言葉は、作品全体のモチーフそのものではないでしょうか。同じ例えが作中で何度も使われていることからもその様子がうかがえます。ポイントは、重要なスポットライトは管理者たちにも公平に当たっているということ。管理者ですら、バストイ島という船の上の船員の一人であるということを本作は如実に表していました。そこから何を言おうとしているとまで感じるものはありませんでしたが、人道に裏打ちされない社会的な地位の脆さ、はかなさ、虚栄といったものを妄想しないと言えば嘘になります。
  • 似た要素のある『ショーシャンクの空に』と比べたときに見えてくるものがあるかもしれません。人はカタルシスが起こるとき、そこに明白な悪を求めてしまうもので、そのために出来る限りその悪から同情の余地を排そうとします。かの作品も本作も、管理者側がそういう“悪”の位置に立たされます。そういうとき、管理者が管理者として正しくあろうとする姿や、その姿と一致しない自我との狭間で擦り切れた末に過ちを犯してしまう哀惜に目を向けることは愚かであるかのように忌避されることが多いです。
  • しかし本作は、はたして目を逸らしてはいないように見えました。なにしろ、船の上では規律を乱した者のために惨劇が起こるものなのです。真に規律を乱したのは主人公たち“甲板員”や“掃除夫”ではなく、“船長”と“航海士”。管理していた者たちがいかにして惨劇を招き寄せたのかをよりグロテスクに書き起こすなら、彼らの苦悩は必須だったと言えるでしょう。多くのスポットライトを少年たちに当てながら、本作は管理者たちをも非常に人間臭く描き出しています。
  • この点だけでなく終始ですが、非常に言葉少なで言葉が必要なときでもその表現を台詞に頼らないのも本作の魅力の一つです。言葉が脆さを、沈黙が愚かさを引き寄せるのを知っているかのように秀逸なバランス感覚がそこにあります。
  • テーマ性が見出されなくても本作が哀愁あるものに仕上がっているのは、さらに本作が、歴史の上でという意味でだけでなく、最終的に個人の過去のものとして語られるからでしょう。むしろ主役二人にとって本作は過ぎ去っていった一瞬の日々そのもの。成長譚ですらないと書きましたが、ゆえにただ無情に過去となってしまうことが哀惜を誘うのでしょう。それが明かされるのはラストシーンですが、過去であることがもの悲しいというのは多くの戦争映画やかの『スタンド・バイ・ミー』などに通じるものがあると思っています。
  • ところで最後に話を少し戻すのですが、ブローテンが寮長の職に留まり続けていた理由は結局何だったのでしょうか。個人的には、それを質問した校長が完全にブーメランだったことから、この二人は同じ理由でこの施設にいるのではないだろうかと考えていました。

11月13日『ザ・マスター』


  • 成功した新興宗教の教祖と壊れた兵士。という構図を見て『最強のふたり』のようなドラマチックなお話かなと思っていたのですが、どうしてどうして、ドラマ性一切抜きのとんでもなく知的で強烈な個性を持つ作品だったではありませんか。最近頭を空にしては観られないような作品ばかり選んでいるつもりでしたが、自分はまだまだパンクする寸前まで行ってはいなかったようです。ええ、今まさにパンク寸前。
  • 立場もそれまでの環境も違う二人の人間が出会うということは価値観の衝突を招きますし、普通ならそれを描きます。しかし本作は違いました。一人の人間がもう一人の価値観に傾注していく。いえ、厳密には根本的なところで二人は同じ価値観の人間でしかなかったと分かるのです。本作は価値観のお話ですらありませんでした。じゃあ何なのか。
  • 観終わった後不意に想起されたのは“アメリカン・ニューシネマ”という用語でした。ひたすら現実に打ち砕かれる精神の虚栄。救いを求めて彷徨し続ける、挫折までのプロセス。真なる諦観と去勢メソッド。奇遇にも舞台の大半はアメリカで、時代設定も二次大戦直後という、一部のアメリカにとっては空虚な頃。そう、まさに“空虚”こそが本作を大いにかたちづくっていたファクターではなかったでしょうか。
  • 教祖ランカスター・ドッドは教祖としては成功し続けます。ラストまで。ただ人間としては、アイアム強硬派然として彼を操る妻の手によって、祀り上げられるべきの何か以外の何者でもなくなってしまう。偶像の写し身としてのヒトガタが空虚そのものでなければ、何が空虚なのでしょうか。序盤にフレディと出会うシーンで彼は自分のことをこう語っています。「私は作家であり、医者であり、原始物理学者であり、論理哲学者だ。だがそれ以前に、一人の人間だ」この時点では、まだ彼の教団は親族を中心とした小さなサロンのような集まりでした。
  • 元海兵のフレディはアル中でセックス依存でPTSD。ラストまで。そして偶像としてのランカスターに縋ろうとしました。しかし人間としてのランカスターが持っていないもの、妻と教団がランカスターから奪い去ったもののすべてを持っていました。そしてフレディを救いたかったのも、フレディが本当に縋りたかったものも人間であるランカスターの方だった。そのことに二人はおそらく気がついたのでしょう。決別のさだめを知って振り返れば、二人の間には何も残ってはいなかった。ただ無為な時間だけがあった。フレディは去り、一人砂浜で砂の女を抱きます。
  • もしきちんと理解しながら観賞できていたら、最後にランカスターが口ずさむOn A Slow Boat To Chinaで泣いてしまっていたかもしれません。過剰な演出や拳を握る展開などはなかったにもかかわらず、ひどく感傷的な映画だったと気づいたのは少し後のことでした。


もうちょっとしたら引越しですが、TSUTAYA DISCASはどうしましょうねえ。
地元にはわりと近所にTSUTAYAがありますし、向こうに帰ったらちょいと暇もなくなります。

確か、休会という手があったはずです。調べておかねば。