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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2013,12,30 PM10 【劇場映画録『かぐや姫の物語』】

映画 徒然

pamphlet & soundtrack

心震わされるために映画を観ています。

ドール趣味もまた「カワイイ(なんだこれはかわいすぎるだろなにがどうなってんだ)」という感動を得るため、また、得られるがために続いていることでありますが(いきなり気持ち悪い話ですいません)、映画を観るのもまた心震わすため、そして震わされ得るがためにしていること。もっぱらがおうち観賞とはいえ、カチリとはまる名作であれば大画面でなくても再々胸打たれるのであります。

要はモチベーションがたいへんポジティブであると言いたいのですが、すでに主旨ぐっだぐだですね(^^;)

まあ、そんな自分でも時折、今日のように劇場へ足を運んで気分転換もするのです。

ただ、おうち観賞専科の矜持ではありませんが、大画面だからといってそうそう期待の底上げをするわけではありません。

わりかし現在のシネマズでは昼間に他にロクなものを上映しておりませんで(おっと、口が…)、それにぽんぽこも山田くんも大好きな高畑勲監督の最新作とあれば、劇場で観るにもまったくやぶさかでなしとものぐさを宥めるにも易く。しかしながら原作忠実のかぐや姫。ううむ、そう面白くはないかもしれないが、昨今珍しい鉛筆画風の絵柄と久石氏の音楽でもってどう仕上げているのか、やはり興味は尽きないし、いやさ目に楽しくのみあればそれでもよしよし。とまあ、見事にまこと守銭奴なる身がいろいろ理由をこさえつけてえっちらおっちら半券振り振りど真ん中E−6席に腰をおろしました次第で、さてさて、大画面大音声分(それも好きですからね)は差し引き、お値段分愉しませていただきましょう程度の、かろがろしいどころか尊大不遜この上ない心持であったわけでなくとも、そう責められますればあいすいませんと平伏せざるを得ないようなモチベーションであったと認めるを免れません、でした!(息切れ)

いや、もう、ホント、謝らせてください(;´д`)


よもや、竹取物語で涙するとは……!!


※以下、一応ネタバレ注意。
ただ、今日のところは未観賞の人を思い、また、本作につきましては筋書きにさほどの伏せる必要性はないとも自分には思われますため、むしろまだ観ることを決めかねておられる人、あるいは再観の優位性を探っておられる方の一助となれば幸いとなるようしたためました意にございます。


姫「穢れてなんかいないわ。喜びも、悲しみも。この地に生きるものは、みんな彩りに満ちて。鳥、虫、獣、草木花、人の情けを――」

周りの人々を気にしていると、自分という人間は乙女チックとは言わないまでもわりあいセンチメンタルな男なのかもと疑ってしまうことは恥ずかしながらしばしばございます。

とにかく日本最古の少女漫画といった内容ですよね、竹取物語
本作『かぐや姫の物語』も、原作に忠実な大筋とあってその点についても大きな違いはありません。
不幸なお姫様の憐れみたっぷりな世俗慕情。かごの鳥の憧憬。
現代の価値観からするとどうでしょう。
余人からは世間知らずなわがまま美少女の薄幸自慢など時代錯誤すぎて鼻が曲がるとまで言われやしないか心配ですらあります。

ぼく自身、不幸自慢はするのもされるのも苦手でして、自分で創作するときなんかはいかに人物の苦境苦悩を鼻につかないよう見せるかに、半分強迫観念じみていると自覚するくらいには気を割いたりしているものです。「どう?わたしってこんなに不幸なのよ?」なんて能動的に迫ってこられたら、そいつの鼻の穴に二本指を突き刺してそのまま振りかぶって投げ飛ばしたくなります。

実をいえば観賞途中、中程にて、少々気が削がれておりました。
すぐ後ろの列に女性の方がおふたりおられたのですが、彼らが何を思っているのか急に気になり始めてからがいけませんでしたね。特に何を心配していたかといえば上記の通りでございますから再筆はいたしません。

なぜエラそうにおまえがそんな心配をしているのだという話ですからケチな上に小心者という体たらく。近頃人間不信でいけないとも思うのですが、分かち合えるよき友というのは実に得難く、ウェブ上にそのようなものは全体求めてよい性分ではないと重ね重ね認めたいきさつもありいよいよ解夏は遠く……

というのが不幸や苦労自慢の典型。いやさ、「自慢」とは受け手に取ってそう見えるという話ですが。
我が身憐れみ救い難しと嘆くは易し、ただ見せるも易し。
易くないのは、余人に我がことのごとしとして痛み入らせるばかりにございます。人の情けも安くはない。いや失敬、必ずしも高い安いではございませんが、買い求める卑しみと不実を差し引いて余りあり得る誠実堅実を示すことこそ一筋縄ではございません。

特に竹取物語は、先にも書いたことの繰り返しになりますが、骨子だけ抜き出せばかぐや姫への憐れみをただ一方的に求めるだけのものとなります。観る側に当初よりそのような腹づもりがなければかぐや姫の方が先にそっぽを向く。古い物語というのはえてしてそういう嫌いのあるものです。

そのような原作を、しかし原作に忠実な筋書きで、現代において“魅せる”ということ。それは「まあ竹取物語ってそういうお話だしね」という知識前提の妥協を観客があえてせねばならないようなものに仕上げてはならないということでもあります。むしろ、原作に忠実であればあるほど、「ただお姫様が可哀想なだけのお話」という前提知識の覆される驚きこそが必要となるです。

そして、必要な驚きはただ一つ。
竹取物語とは、こんなにも姫に共感できる物語だったのか」

高畑勲監督に賛辞を送ります。ぼくは驚いた。

ちなみに本作は、原作である竹取物語、というか、竹取物語の原文の方をそこそこでも覚えていなくては、この驚きも小さくはなりますし、平安貴族の文化やしきたりなどもある程度知っていた方が考えずに楽しめます(たとえば、貴族の女性は結婚するまで顔を見せてはならないし、顔を見られたら男に責任を取ってもらう=娶ってもらわなくてはならない、とか)。
だいたい高校の古典科目で基礎教養として習う知識ですし、うろ覚えでも充分だとは思いますが、「竹取物語」で検索でもすれば全文の現代語訳なども出てくるので、不安な方はそうすることを強くお勧めします。

参考リンク:竹取物語 - Wikipedia

さてその驚きは、ある意味半分は当然の驚きでもあります。
古い物語が一方的なのは、たいてい観客の気持ちを寄り添わせるために必要な描写を省いている(というか、現代とは感受性の方向性が違う古代の人々にそういうものは最初から必要でなかった)ためで、その分の“余白”が作品内には大量にあります。特に本作から逆説的に印象づけられる原作の“余白”の一つは、姫がいわゆる「美しい姫」に育つまでの過程です。

姫は、竹から生まれた時点では赤ん坊でした。
拾ったのは竹取の翁。「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが」のおうち。すなわち、竹を収穫して生計を立てているような山里の家に生まれたのですが、それが姫を授かって間もないうちに都に屋敷を構えています。屋敷を構えられたのは、竹から金(Au)が出てくるようになったおかげなのですが、細かい話は当然のようにすっ飛ばされていて、田舎にいた姫の子供時代についての記述はどこにもありません。

この原作には描かれていない姫の幼少時代に、人間の伝記同様、姫の原点を高畑監督は描き出しました。
これは「かぐや姫の物語」なのですから、当然といえば当然ですが、人物像の根幹にも結び付くいわゆる“原風景”を強く印象づけられることは、受け手の共感を得るにあたっても大きな要素となり得ます。
その後においても、原作・竹取物語では受け手の一解釈でしかなかった“かごの鳥の憧憬”をはっきりとわかりやすく示し、さらにそれが「世間知らずのお姫様の妄想」になりさがらない説得力を得るのにまで、幼少時代の描写が効いているのです。
もとい、最後の最後まで。まさに余すことなく。

むしろ、姫の価値観の象徴、あるいは偶像ですらある幼少時代(都へ上るまで)を描き終えた時点で、本作で描くべきことのほとんどはやり遂げられていたと言っても過言ではありません。前半のさらに半分程度でしょうか。その時点ですでに姫は、竹取物語のときのような物語の中の1ピースではなく、生きたキャラクターとして、受け手の中で完成されるようになっていたのです。


翁「ひーめ!おいで!」

原作・竹取物語においても示されているのが、姫に幸せになってほしいという翁の思いと、その思いにこたえて安心させられなかったことも含め、親孝行ができなかったことに対する姫の無念です。

本作『かぐや姫の物語』でも、この翁と姫の関係、そして媼も加えた二つの要素が最後まで重要な位置を占めています。かぐや姫の悔恨、そして物語の情味においてです。

悪い言い方かもしれませんが、率直に言って翁も媼もとてもステレオタイプな父母の像と役割をなしています。

媼は慈愛でもって姫の苦悩を思いやり、一心に受け止めます。
翁は奔走し、あの手この手で姫に即物的な幸せを与えようとします。
どちらも姫をかわいがり、それぞれの方法で尽くすのですが、これがまた人間の業を深めてもいて面白い。

このような父母象の典型に漏れない場合、父親の側は子どもの心を顧みないものです。
権威主義を盲信し、自身の前提における幸せを子どもに押し付けようとします。
また子どもの性別が男か女かでもこのあたりは入れ替わったりするものだと思いますが、とにかく翁の奮闘ぶりは姫の心をひたすら置き去りにするものでした。

対照的に媼が姫の心を理解しようと努め、姫の心の自由を尊重していることを常に言動で示してきます。そのため、序盤で姫の心情に寄り添うようになってしまった身としては、翁は始終悪者のように見えるものでした。

しかしながら、翁が姫を思う気持ちは本物です。
権威主事の父親が奔走するのは、自分自身の権威や贅沢求めてのことでもあると、事実はどうあれ解釈されがちです。
しかし翁は都に屋敷を構えようとする時点から「姫に高貴なる生活をさせよというのが天の御意志である」と愚直なまでに明言しておりますし、都での生活においても下女にさせればよい貢物運びを自分でしていたり姫の成長ぶりを日々気にかけたりと、自分なりに姫のために働き続けています。そもそも、竹から姫が生まれた時点で「これは天がワシに授けてくださったに違いない」と即座に解釈するくらい“信心深い正直者”なのですから、「天の御意志である」という動機付けおよび義務感に嘘はございますまい。

何より、公家5人衆からの求婚があったとき、あの時代であれば家長の命として姫を無理やり誰かと結婚させることなど造作もなかったでしょう。田舎育ちで農家ならなおさらです。
それでいちいち姫にお伺いを立てて、嫌だと言われて強硬的な姿勢に出る気配がない翁のどこに、ただ御身かわいいだけの欲深さが見えるでしょうか。

申し分ないお相手だと自分が思い込んでいる求婚者を姫に否定され、翁は戸惑います。
ただ姫の幸せが、この時代の“普通の人”である翁には理解できないのです。
むしろ翁の言っていることは十二分に正論でしょう。姫ばかりをかわいがるばかりで助言を与えられない媼よりも世間をよく理解し姫に献身していると言えないこともありません。無情なことを言えば、媼には翁との緩衝を模索して姫を諭す道だってあったはずなのです(黙って抱きしめてくれる媼の存在なくして姫が気を保っていられたかどうかは実際疑問ですが)。

また、最後には翁が自分の過ちを認め、泣きながら姫に許しを請います。
それは、どうしようもない後悔の形ですから、言葉にするより他になかったのでしょうが、翁の正直さを物語ってもいて、その正直さが裏目に出た結果とも言えるのですからやり切れないものを感じずにはいられません。そもそも、姫が翁を恨んでなどいるはずがないのです。

そして姫が夜空に消えた後、月には赤ん坊の頃の姫の姿が映り込みます。
ここに去来し、本作を象徴もする様々な思いは後述としますが、翁に関して思い出されるのは、序盤で初めて歩いた姫に対する「姫おいで」コール。やたら成長が早い姫を指して「タケノコ」呼ばわりする村の子供たちに憤慨し、彼らに負けじと声を張るのです。

というかそのシーンは、故・地井武男さんの声の演技がとてつもなく強烈なのですが、最初に観たときは声が大きすぎてびっくりするんですよね。大きいというか、翁マジ必死、という感じです。
心臓、心臓がやばいよじいさんっていうか地井さんっ……(汗)
と激しく心配になるくらい、声が裏返るのも構わず翁は姫を呼びまくるのです。

正直観ているときは軽く引いてしまって、オーバーな演技だなあなどと苦笑いしていました。
が、観賞後に思い返すとその「姫おいでコール」が最高にクルんです。涙腺とか、鼻の粘膜とかに。

いや、これは本当に個人的な、ぼく自身の悔恨のせいなのかもしれないのですけど。
なにしろ、劇中の翁をなんとなく悪印象で捉えていたのが、本当に申し訳なく思えてならないのですから。

しかしおそらくこれは解釈としても、姫の最後の思いの一つに重なるのです。


ホーホケキョ となりのかぐや姫

映像的な面白味としても高畑監督節が主張の激しい今作ではあります。
どこのものかといえば前作、となりの山田くん
と、ひとことで言えるわけではなく、新たな試みや、このかぐや姫の物語の手法に合わせて取り入れたと思われる表現も多数あるのですが、となりの山田くんをここにおいて挙げるのは映像的な共通点を指すためのみのことではありません。

となりの山田くんにおいて提示されるのは、高畑監督が持つ一つの家族観と、その家族観を土台に見る、おだやかで普遍的な人生観の一つだと考えられます。考えられるというかとてもあからさまです。押しつけがましくもなくわかりやすい。

その人生観としかし、『かぐや姫の物語』の根幹に流れるものは結局同じではないかと思います。それが監督自身の抱く一つの人生観であることの証明にもなり得ますが、とにかく『かぐや姫の物語』は『ホーホケキョ となりの山田くん』と本質とするところはとにかくよく似ているのです。
ただ、姫というキャラクターによってそれを観客に提示するための普遍性は基礎としては薄れていますし(作劇により底上げされていますがそれはまあ置いておいて)、アプローチの仕方は完全に異なっています。しかしそれはそうであるにすぎません。

となりの山田くんが人生(ヒトの一生)における“生”とある種の“希望”を見据えるものであるならば、かぐや姫の物語はその陰にある“死”と、絶望にも至り得る“悔恨”を見据えるものではないでしょうか。

悔恨こそは、善なる生と表裏一体であるとも言えます。悔恨を罪の意識と言い換えても構いません。

予測のつかない人生を、悔いのないように生きるというのも難しい話です。悔いることこそが人生だと悟ったように言ってみたところで、死を見つめないのであればただの慰めになりさがるでしょう。

本作のキャッチコピーは「かぐや姫罪と罰」。この罪の方を悔恨と言い換えましょう。

作中で姫が嘆くのは、自分の人生を大いに生き抜かなかったことと、それに気づくのがあまりに遅すぎたことです。

かぐや姫が月に帰ることは“死”のメタファーであるというのは有名な解釈です。そもそも竹取物語が美人薄命のモチーフであるという説も同様。
そして『かぐや姫の物語』に見るかぐや姫の帰還とは、竹取物語の解釈を知らなくてもわかるほどあからさまな、“死”と同等の旅立ちです。生者に絶対に会えなくなるどころか、地上にいた頃の記憶を忘れ、月という名の異世界にて永久におだやかに暮らす。さすがに日本で誰も知らない者はいないであろう浄土信仰的な“死”と照らし合わせれば、むしろ死ぬことといったい何が違うと言えるのか。

さらに本作においては、“月への帰還=死”の解釈をほんの少し広げると、ただの“死”ではなく、“自殺”の比喩である可能性も出てきます。
<ネタバレ>姫は数々の幻滅と消沈の末、帝に抱きすくめられたことで一瞬だけ“この地からの脱出”を願ってしまいます(まだこの時点では月にいた頃の記憶はなかったようです)。そしてそれが天に聞き届けられたがゆえに還らねばならなくなるという顛末なのですが、疲れ果てた少女が一塊の絶望を受けて死を望むというのは腑に落ちない話ではありません。

気づいたときには遅すぎた、生きることを望むべきであったという悔恨もまた、思わせぶる先としては“自ら命を絶った後”と捉えられる気がします。お伽噺ですから表現はオブラートに包み、多少のタイムラグも許されるといえるわけです。

と、このように“自殺”とあえて解釈(した方が姫の心情によりなぞりやすいようですが)しなくても、姫にとってのこの“不可避の終焉”が嘆くべきことであるというのは結果論ではありませんでした。これまで懸命に生きたと胸を張って、虚勢も張らず心から言えるのであれば、悔恨の必要はないからです。まさに、「これまで懸命に生きたと胸を張って、虚勢も張らず心から言える」ような人生を送ってこなかったということです。

これが姫の罪の意識でもあります。かつて月の人でありながら地上に生を受けたいと願った自分の心だけでなく、翁と媼もまた、姫に悔いのない幸せな人生を歩んでほしいと願っていたはずです。姫を心から愛した人のうち、真心のある人もそうであったに違いありません。
その心を踏みにじった罪の意識。いやさ、人の感性が罪を決めるのであれば、それこそが姫の罪だとも言えます。月への帰還はその罰とも。

これはすでにぼく個人の解釈の域なので、以下は仮にそういうことにして書いていきます。

とはいえ、先に書いた通り悔いも罪の意識もない人生というのは難題です。
ごく単純に、姫はどう生きるべきであったのかを考えても答えは出ません。
そもそも悔いや罪を意識しないことだと言いたい御仁もおられるでしょう。しかし姫の思慮を、もとい、人の思慮をいたずらに否定することは世の多くの人々の尊厳までを傷つけることに繋がりかねません。そんないわば無情というものを顧みない姫であれば、我々は共感できなかったでしょう。むしろ結末を見てざまあみろとなります。

都に出たときは本当に立場の弱い子どもでしたし、翁や媼を捨てていくわけにはいかないでしょう。また、仮に捨丸と一緒になったとして、それでも生きられるという姫の言葉には説得力がありましたが、夫婦仲からすでに実際どうなるかわかったものではありません。捨丸もまたあの時代の“普通の人”です。

となりの山田くんで時々思い出すのは、「家族というものはみんなでオールを持って舟を漕ぐようなものだ」という話です。
たとい全員が互い全員の幸せを思いやれど、幸せの解釈が違えば足並みはそろいませんし、望み同士で折衝も起こします。
突き詰めるほどにっちもさっちもいかなくなる。

待ち受けるのはやはり、こうではなかったがああはやり直せない、という“死”に際しての悔恨でしょう。
姫は私が悪いと自責しますが、媼の言うとおり、誰のせいでもなく、ただどうしようもなかったのです。


いまのすべては 過去のすべて

ちなみに、<ネタバレ>作中ではこうも示されます。

「地上で生きたいという願いをとがめられ、(姫は)地上に降ろされた」
月並みながら、まことに、この世で生きることはすでに罰なのかもしれないとは余人大勢の知るところと思います。
少なくとも月の人の価値観としては間違いなく地上は“穢れた世界”です。

しかし、生きることがそのあがないではなく罪を重ねることで、死がその罰というのに、地上での生を望むこともまた罪で、地上に生を受けることもまた罰だとしたら、便宜として輪廻転生に当てはめることになりますが、生と死は罪と罰によってループし続けることになります。
だとしたら、この『かぐや姫の物語』を通して見られる人の生のなんと業深きことでしょうか。

「人は望む通りのことが出来るものではない。望む、生きる、それは別々だ。くよくよするもんじゃない。肝心な事は、望んだり生きたりすることに飽きない事だ。」

これはジブリとは関係ない、ロマンロランの『ジャン・クリストフ』からの引用です。
押井守のアニメ映画『イノセンス』では多少言い回しを変えて引用がされています。

最後まで姫が愛しいと思えるのは、物語において人生の困難さを示しながら、しかし一方で彼女の心によってこの引用と同じものを体現しているためなのです。

嘆くということは何かと考えたときに、それは、明確な形としてあろうがなかろうが、何らかの理想というものを抱いていることの、最後の証明にほかなりません。
そもそも理想を持たない者には深い悔恨の嘆きに駆られることなどあり得ないでしょう。無理だとわかって面倒くさくなって投げ出した者も同様。しょうがないと言って自分を慰めに走る者も同様です。
果敢に理想を願い続けることと、悔やみ尽くすことは等価なのです。

ここでいう理想を願うこととは、理想を追うことではございません。
どんなに尊い心を持てど、理想を実際に負い続けられる強さを持ち合わせている人はひと握りであり、そこは天賦の才にも左右されます。
しかし、理想を追えぬ者の願う理想とは、まさに自分が理想を追う姿であります。理想を掴む姿に憧れるだけではないのです。

となりの山田くんで、ののちゃんの担任の先生の座右の銘が出てきます。それは二文字で「適当」でした。上の引用にも繋がります。望むと生きるは別々のこと。ただそれぞれどちらにも飽きないことが肝心。

そして姫の理想とは、まさに理想を追う姿を理想し、ひたすらに生き抜くことでありました。適当にでも構わない。すべてを何でもないことのように、ただ諦め絶望することなく。

その不足を懺悔することは、本当の意味で生への渇望そのものにほかならないのだと思います。

姫は、平安の文化にすら疑問を抱く、我々と似た普遍的な価値観を持つキャラクターです。
また、生きている自分に向かって今まで何をしてきたのだと、姫と同じように自問自責する人は現代において珍しくないのではないかと思います。

ただし姫は、月へ還る直前、再会できた捨丸に、満面の笑みでこう言い放ちます。

「わたし、捨丸兄ちゃんとなら幸せになれたかもしれない!」

単純に見れば希望的観測だけによる蒙昧な思い込みにしか聞こえないかもしれません。
しかし、こんなにも力強く理想への渇望を、手遅れであることを認めながら堂々と口にする少女の像などそうお目にかかれるものでしょうか。
それはもはや虚勢以外のなにものでもあるはずはなく、あまりに痛ましいのですが、諦観や達観とは無縁であろうとしているようでもありました。

その力強さ――普遍的な苦悩をしてなお輝き続けようとし、生を望む姿の象徴としての彼女に共感以上の感動を覚えたとき、どうしてその眩しさが尊く愛おしく思わずにいられましょうか。

尽き果てぬ悔恨が証明する人生の姿と、その現実にすら押し潰されない、生への渇望。
これがぼくの、高畑監督の『かぐや姫の物語』と、彼の描いた姫から受け取ったことのすべてでした。


さらにここから、記事冒頭に貼りつけた写真のパンフレットもまだ読まないうちに細かい表現まで自分なりに解説しようとしてみたり、高畑監督や久石氏や各声優さんへの思いとか、あのちっこい侍女の存在感がやばいとかをあくまで書き綴ったりしていると、もはや要領を得ない白々しい文字の羅列となってしまうだろうと思われますし、まったく手短ではないながらどうにか要点だけまとめられたようなので、この記事はこれまでにしておきます。


ちなみに、今日のぼくは生き抜くことや理想への渇望をばかり賛美していると思いますが、実は劇場へ足を運ぶ前日に『華麗なるギャツビー』を家で観賞したばかりでもありました。
そこに描かれるギャツビー氏は、届かぬとわかっている夢を実際に追い求めることで自分の人生を生き抜こうとした者です。敗者なれどそこに悔恨はあったかどうか。
とにかく姫とは対照的にも思えますが、しかし一方で、同じく見果てぬ夢から目を逸らさぬことの尊さを示してもいるようにも見えました。対照的に見えるのは、姫がそうあるべきであったという後悔の根として望む姿こそ、ギャツビー氏であったためと言っても過言ではないでしょう。なよたけのかぐや姫に“Great”と修飾され得る生き方はできなかったのです。

またさらに、TOHOシネマズが入っているデパートの他の会のCDショップにて、3枚で3000円というセールをやっていたものですから、この機に乗じて棚にあったものから3つ選んだのですが、『ベンジャミン・バトン』、『レインマン』、『シンドラーのリスト』と、どれも悔恨を巡る人生の物語と言えるものばかりになっていました。
くしくも、チケットを買ってから観賞前までの、余った時間の出来事です。

「悔いのない人生を」と、その数奇な生涯の果てにそれを願い、求めることの尊さを人に示した『ベンジャミン・バトン』

結果を知れぬとも、ただ誠実な望みを願いに任せ、信じ続ける人の健気さと愛しさが余韻に残る『レインマン

そして、自らの服を売ればまだ救えたと、偉業の果てでなお悔恨し続ける人の美しさを教えてくれる『シンドラーのリスト

ある程度恣意的な解釈もあるでしょうが、しかしあの日は少々奇特なめぐりあわせを感じずにはいられなかった。そのためにこう思うのであります。

ここへさらに、生への渇望を自分以外の者へすべて注ぎ込んで逝った『ダンサー・イン・ザ・ダーク』がすでに並ぶ自分の棚へ、必ず『かぐや姫の物語』も並べてみようとも思っています。