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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

映画録56『ムード・インディゴ うたかたの日々』

 ハッセェ、ハッセェェェェェェ!щ(゚д゚щ)ウォォォォ!!

 実際キャラ造形の“完璧でなさ”がすごくいいです一週間フレンズ。

 

 

※case.728の映画録は、5段落前後でまとめる既観賞者向けの参考記事を目指しています。ネタバレ・解説記事ではありませんが、物語の中核には触れているので未観賞の方はご注意ください。

 

6月16日 ムード・インディゴ うたかたの日々

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「笑顔に満ちていた」

 

1.

 

 お金って何なんですか? 人生って何なんですか?

 人は何のために生きて、人生を何かのために生きる尊さは世界尊さランキングの第何位くらいに入るのでしょうか?

 うたかたと消えゆく結末のむなしさを見て最下層にまで落ちるのだとしたら、頑張るにしろ諦めるにしろ、人生に意味などあるのでしょうか?

 

 ――なんて、16世紀西欧のヴァニタス*1志向みたいなのを突きつけられると僕は「オゥ上等だ、かかってこいやァ!ヽ('д')ノ」と好敵手扱いしだす性質ですが、当事者たちに喧嘩を吹っかけるわけにもいきませんから、えてしてただ悄然とさせられます。

 

 本作は19世紀に「最も悲惨な恋愛小説」と言われたボリス・ヴィアンの『日々の泡*2』を映像化したもの。しかしその表面的なイメージは途方もなく幻想的で創造的な世界観によって構築され、あまりに沈痛なその結末において永劫に失われる何もかもが、途方もなく尊く愛しいものであったことを殊更に印象づけてきます。

 

 “上げて落とす”がシャレにならないレベルだったよ!(○ω○;)

 

 

2.あらすじ/彼は働かなくても生きていけた

 

 22歳のコラン(ロマン・デュリス)の暮らしはすでに裕福で、将来的にも遊んで暮らしていけるだけの資産を持っていた。

 芸術的な料理を作るニコラ(オマール・シー)を料理人に雇っていて、家の中は最新式の機械で溢れている。友達もいてパーティにも呼ばれる。いないのは恋人だけ。

 ある日コランは、友人の家で開かれたパーティで美しいクロエ(オドレイ・トトゥ)と運命的な出会いをする。

 たちまち恋に落ちる 二人。順調に愛を育み、友人たちにも祝福されて無事に結婚。

 しかしハネムーンのホテルで窓から舞い込んできた綿毛が、眠るクロエの口から入って肺に至る。

 数日後、クロエの肺には睡蓮の花が根づいていた。

 治療のために資産を使い果たすコラン。やがて働くことを決意するが……。

 

 

3.タイムカプセルの手紙『おとなになったぼくへ』

 

 ハネムーンにて暗雲が兆しはじめるまで、本作は目まぐるしく不可思議な彩りに満ちています。表面的には本作そのものと言えるものがその"彩り"です。

ストップモーションで元気に動き回る創作料理に、水道から出てくるコラじみたウナギ。

 グーグルアースみたいなデジタル双眼鏡の検索システムは、曖昧な要望でも電波の向こうのオペレーターが観光資料を見ながら指示してくれる。

 通りによって違う天気。外へ出たがる靴。演奏の雰囲気に合わせてカクテルを自動で作るピアノ。

 

 不可思議なのはその“彩り”に当たるものたちが、SFやファンタジー小説のそれのように一つ一つ意義のあるものではなく、あくまで稚気に満ち溢れているということ。

 ハリー・ポッターの世界の妙にまどろっこしい日用品にしたって、伝統を重んじたがる魔法使いたちの嗜好に沿ったものだったり、マグル(魔法使いでない人間)の文明に置いてけぼりを食っただけだったりと、それなりに存在意義についての説明ができるものです。

 

 対して本作にあるモノは、徹底して無意味で不合理な、幼い子どもの空想を濾過さえせずにぶちまけたそのままの形をしています。《工場用クレーン吊り下げられる遊覧ゴンドラ》なんかは完全にそれですよね。

 しかしそんな幻想に彩られた世界の下地としてあるのは、超科学でも魔法でもなく、現実的な質感を持つ街並みだったりする。それもまた、外界を捉えながらそこに空想を重ねる子供の目を表しているように思えます。

 

 そしてその空想の世界で金銭的な不自由なく働かず友達と遊び恋を成就させ社会的にも認められて幸せに生きていたコランたちの姿は、かつて多くの人が空想し、そしてそのように生きられるだろうと根拠もなく信じ、多感な時期に至る頃に捨ててしまっただろう《稚拙な予言》そのもののように思えたのでした(おまけに彼らの行動や遊び方もどこか幼稚な感性を思わされます)。

 僕は彼らを観る前から知っていたのです。

 

 

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4.開けられない理由

 

 本作の登場人物たちを《髭の生えた子ども》だとするなら、彼らの混迷とともに崩壊していく世界はまるで、稚気を失いつつある僕らが将来に抱く不安や怖れを表しているようでした。

 

 資産が底をついて働かなくてはいけなくなるというのには、成人した人間の独り立ちを思わされます。

 社会人となった最初の瞬間において、たいていの若者は“無一文”になるでしょう。

 学生時代から起業や引っ越しなどの理由もなくお金を貯める人は少ないでしょうし、理由があってもそれが生活費以外への投資なら実質的に無一文と言えるわけです。

 

 親という経済的な支柱から離れることで《資産》がなくなり、生きるためや家族のために働くことになる。

 いやさ、ただ働けばいいというわけではなく、《労働への成功》が必須になる。

 

 しかし本作にあるのは《労働への失敗》とその結末。

 その影響によって稚気による幻想の世界は否定され、むなしき泡沫として消える。

 

 僕らが自分たちの《稚拙な予言》を独り立ちに先駆けて否定するのは、この《労働への失敗》を恐れるためというのが理由の一つにはあるのでしょう。稚気を忘れようとして人に当たり散らすくらい必死な大人も珍しくありませんよね(そういう人にこの作品は合わないかもしれません)。

 

 

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5.『20年後の僕へ』

 

 本作は原著からして痛切な社会批判の詰め込まれた寓話であるとよく言われているようです。僕が取り上げた独り立ちと労働にまつわる話もその一つにはなるのでしょうか。

 

 経済的に自立した《大人》となるためには《労働への成功》が必須。

逆にいえば《労働への失敗》により人は強制的に《髭の生えた子ども》に戻されるということになります。

 《髭の生えた子ども》のまま歩む未来は、本作の幻想的な世界観と同様、役立たずのうたかたとして弾ける運命にある。

 

 もちろん、再び労働への成功や社会への参画を目指して動き出さないことを怠惰や脆弱と評して侮蔑することは簡単です。

しかしもはや手段も問わずに懸命に働きながらも《失敗》し続ける人々がいることを顧みず、《成功》だけが唯一の希望の道筋であると死ぬまで押しつけ続ける社会はあまりに無情ではないか。

本作は現実の社会を指してそのように訴えているのかもしれません。

 

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 ラストシーンではクロエがクロッキー帳に書き溜めていたかつての幸せな日々、はじめてのデートを綴ったパラパラ漫画が流れ、ネズミに連れられて彼方へ飛んでいきます。

それを見て、いかに人生を無為に終えようとも幼き幻想の日々と幸せな過去が消えることはない、という救いを見出すことはできるでしょう。

 しかし、消えないうたかたは必ず空へ昇って見えなくなり、二度と手の届かないところへ行ってしまうのだとも取れてしまう。 

 

 すべての過去が空へ消えゆくさだめなら、成功がもたらす栄華もまた泡沫と同じであるのに、それが永劫残るものであるかのように振る舞う社会は欺瞞に満ちている。

 ヴァニタスに傾倒するようにそう思うか否かは、捉える人次第でしょうね。*3

 

 

6.おまけ録/バッドタイミング(笑)

 

 就活してる人間が観ていい映画で、していい解釈じゃないっすねえ。はっはっはっはっはっ(・ロ`・;)

 

 いや実際なんとも言えない気持ちにしかなりませんけれど、なんとなくいい映画、嫌いになれない映画です。ていうか観返すとどんどん好きになります(ヴァニタスは僕の好敵手という事実は置いておいて)。細かい話をしていればとてもここには書き切れない。

 

 こう好きになれる理由には、その細かい話のいくつかが当てはまるのでしょう。

ただその一つはきっと、本作の前半が僕らのかつて抱いた幸せいっぱいの《稚拙な予言》そのものであって、そして後半がそれを捨てざるを得なかった僕らの不安と哀愁をそのまま表現してくれているからなのかもしれません。

 真面目に働かないとこうなる、けれどもし可能なら幼い頃の自分の《予言》どおりに生きてみたかった。

 いやさ、そのように生きられない現実に意味などあるのだろうか。今の理想もまた《予言》と同じくすべて泡沫に変わってそれへ還り、しかし社会は街はそのまま回り続けるのではないだろうか。

 

 僕らの記憶の奥底にある稚気に触れることで、本作は僕らの今の漠然とした懊悩や懐疑に寄り添い、話し相手になってくれるのかもしれません。

 

 

 

 いやはやしかしタイミングで言えば映画を観るとこういう手合いには必ず行き当たるというか、そもそも今僕は映画なんか観てる場合ではないのでしょうが(笑)。このままではコランにもなれずにシックになってしまう。

ゲームもしてます。そしてここ最近やったゲームが初代BIOSHOCKにDOD3(のDLC)という、どちらかと言えばそっちの方が如実に《こういう手合い》だったりして、二作続けていやぁーな気分になったのでした。

 特にDOD3のDLCは、もうなんか泣きたくなりましたね。泣けたとは違うんですよ。せめていっそ泣かせてくれぇって思うのに涙が出る前から枯れ果て渇き切ってる感じ。DODのスタッフはやっぱり皆クソ野郎だ!(白旗)

 

 いやこれは長くなるのでそのうち気力があれば記事にしたいかと思います。今日はこのへんで。

*1:知識や栄誉や美しさといったもののむなしさを寓意として表した静物画。ドクロ、泡、楽器などが主なモチーフ。参照:ヴァニタス - Wikipedia

*2:あるいは『うたかたの日々』。二通りの邦題

*3:【追記】本作は表面的には泡沫的な理想を肯定的に表現しているようでいて、実は泡沫的理想そのものを、それが“泡沫的である”という結論にしか至れない社会と合わせて批判していると読み替えることもできるんじゃないでしょうか。