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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

映画録58『プレステージ』と、長めの雑記「『パンズ・ラビリンス』と“浄土”」

上の弟と捉え方が違ってしばらく話し合ったのですが、『パンズ・ラビリンス』のラストをどう受け止めるかは死生観や人生観みたいなものにも左右されるようです。

要はあの……あ、いかん、重大なネタバレだ。記事末の余白に書きます。

 

   

※case.728の映画録は、5段落前後でまとめる既観賞者向けの参考記事を目指しています。ネタバレ・解説記事ではありませんが、物語の中核には触れているので未観賞の方はご注意ください。

 

6月23日 プレステージ

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「しっかりごらん」

 

1.喝采を軽んじるべからず。

 

人は人のなす所業に時に驚き、喜び、讃える。

それは人間の最も原始的な《肯定》にあたる反応の一つです。

そして人間はその自我において、究極的には必ず自己の肯定を求めるもの。自殺念慮さえ肯定への渇望が先になければ有り得ない。一部のキリスト教などは、肯定を人に求めることを罪深いとする代わりに、神に求めることを正義としました。

神を信じないのならばやはり人は人に肯定を求める。喝采は人による最大級の肯定です。至上の甘美とされます。しかしあまりに大きすぎるそれは、一度味わうだけで数多の人を虜にしてしまう。

喝采に憑りつかれるのは人か、化け物か。

若きマジシャンなどはどちらでしょうか?

 

この映画すごいヨォ! さすがダークナイトのお兄サン!!*1

クリストファー・ノーランの傑作と噂には聞いていましたが、これほどの“偉業”とは…!

 

 

2.あらすじ ~マジシャンたちの日記~

 

舞台は19世紀末のロンドン。手品師最後の全盛期。二人の若きマジシャンがいた。

《偉大なるダントン》こと、ロバート・アンジャー(ヒュー・ジャックマン)。

《教授》こと、アルフレッド・ボーデン(クリスチャン・ベール)。

二人は同じ師の元で見習い時代を過ごしていた。その時代から大きな因縁が積み重なって、互いに独立した後も宿敵として意識し合い、ショーの邪魔やトリックの盗み合いを繰り返す間柄だった。

そんなある時、アンジャーの完成させた完璧な《瞬間移動マジック》のタネを探るため、ボーデンは公演中のアンジャーの楽屋裏へ忍び込む。ボーデンがステージの真下へ行くと、そこにはなぜか《脱出マジック》用の水槽が置かれていた。

それは二人のマジシャンにとってはいわくつきの水槽。師の公演中、そのアシスタントでもあったアンジャーの妻が、ボーデンのミスで溺死した水槽。

立ち尽くすボーデンの目の前に、《瞬間移動マジック》を発動させた《偉大なるダントン》がステージの隠し窓から落下してくる。水槽の中に。

衝撃でふたが閉まり、鍵がかかる。溺れゆくアンジャーをボーデンは見ていた。

そしてボーデンは、アンジャー殺しの罪で投獄される。

 

誰がアンジャーを?どうやって水槽をステージの下に?

ボーデンはアンジャーの日記を手に入れ、真相を知るために暗号化されたそれを読み解いていく。そして過去のアンジャーもまた、ボーデンの日記を盗み出し、先に《瞬間移動マジック》を完成させていたボーデンの秘密を手に入れるために、単身アメリカに渡っていたのだった……。

 

 

3.まずノーランに喝采を

 

マジックの展開をそのまま取り入れたような脚本は、二人の攻防に伴う騙し合いとどんでん返しの連続となっています。

常に必ずボーデンかアンジャーのどちらかの視点で描かれるのですが、どちらも相手を出し抜こうと考えているので、わたしたちも必ず騙されることになるのです。

また、上のあらすじではある程度整理しましたが、第三者視点から見てもひっかかるトリックもしょっぱなから敷き詰められています。

時系列は執拗に入り組んでいますし、細かい伏線を挙げればキリがないでしょう。再観したときに気づかされる要素が多すぎて舌を巻きます。

しかもこれが最後までダレないし間延びしていない。

脚本の完成度だけでも充分に傑作と言えてしまう理由にあたります。

 

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ただそれだけでなく、本作は《人をやめてマジシャンになった》二人の若者の、喰らい合う煉獄じみた半生を描いたものでもある。無上の喝采を掴むための“偉業(プレステージ)”を追い求めた二人の人間が、それぞれに“異形”と化していく様が描き抜かれてもいるのです。

しかし一段落目にも書いた通り、あくまで喝采を追い求めるその姿は、“異形”の意気に至ってもなお人間の原型を忠実に体現し続けるものでもあります。その二律背反を感じ取ったらもう目を剥くほかになくなるでしょう。

本作はどこまでも“人間”が凄まじい。

あまりにも強烈すぎて抽象的な話しかできなくなっていますが、本作が『プレステージ』の題に恥じない、映画の“偉業”であることだけは間違いありません。その理由がアンジャーとボーデンの凄まじい“人間性”なのです。

 

 

4.あくまでマジシャンですから。

 

二人が追い求めたマジシャンという存在の、“異形”と名づけてしまいたくなるほどの悪魔性も本作のすさまじさの一つです。

先に《観客》の目線から断言しますが、二人が共に究極のマジックとした《瞬間移動マジック》の完成形はもはやマジックではありません。《瞬間移動》が成立するには、出発点の次に到達点にいるのが同じ人物である必要があるはず。

偏見もあるでしょうがその偏見も含め、それが《トリックを知ってしまった観客》の目線からの回答なのです(これを理由に評価を下げている人もいるかもしれません)。

しかし、マジックとは何でしょうか?マジックショーにおける“インチキ”とは?

よく考えていただきたい。それはこの世の《確かにあるけれどないもの》の一つです。

ショーはショーの中だけの閉じた世界。そこで真実を決めるのはマジシャンではなく、マジックを見る観客の方です。観客がトリックを知らず、騙される限りにおいて、マジックは常に成立する。

乱暴な言い方をすれば“バレなければいい”*2

そしてその《ショーの中の真実》は、ショーの終わりと共に残らず虚構と混ざり合って混沌と無に還るのです。

マジックショーは生み出さない。《喝采》すらも、《ショーの中の真実》に付随する一要素に他ならない。

しかし自己の肯定を求める人間の原型は、喝采という、一瞬の真実であって必ず無に帰すものを、求めるものの究極形に置いてしまっています。

マジシャンは、虚構と“偉業”によってこの業を掘り下げてしまう強い偶像です。

すべては、人生は、ただ一瞬の肯定のため。そして喝采に憑りつかれた人は、自身の死さえも喝采の炉にくべる。

自分が死んでもショーの中で蘇ればいい。たった一度きりの公演の世界で魔術師は毎度生まれて死ぬ。

アンジャーは最後に、そのマジシャンの真理とも言うべきものを、虚構以外で体現してしまいます。そういう意味で彼のマジックはもはやマジックではなかったものの、ショーが終わることで真実は虚構へと昇華し、彼は最後までマジシャンという名の人間であり続けたのでした。

 

 

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5.僕らはジンベエザメでいつかプランクトンになる

 

僕が子供の頃というのはちょうどMr. マリックやプリンセス・テンコーの流行りまくった時期でした。デパートのおもちゃコーナーや本屋の児童書の棚へ行けば、手品用のアイテムや書籍がたくさん置いてありましたし、母の仕事とも関係があったおかげで買い与えられなくてもそういう品物を手に入れやすい環境にいました。自宅で練習した技をクラスのお楽しみ会(今もあるのかな?)などで披露して喝采を得た経験が僕にもあります。

しかし同じ手品を繰り返しても反応は悪くなる一方ですから、クラスの手品師でいたければ新しい技を手に入れてくる必要がある。

ネタは余っていましたが生来飽きっぽくて怠けやすい僕は、手っ取り早く注目を得たいがために自分からネタバラシを始めます。どういうところが難しくて、どういうところがコツか。人に教えることで自分の努力を知らしめたかった、というのもあったはずです。

それでまた一瞬の喝采を得ましたが、もうネタという名の貯金は残っていませんでした。新しいネタを仕入れてくる前に自分も周りも冷めてしまい、いつの間にかみんな絵を書くことや外でドッジボールをすることに熱を戻していたのです。

 

本作中でもボーデンが、観客として来ていたある少年に語ります。

「タネを教えない限りみんな見てくれる。

 だがタネを知った途端、みんな離れていく」

タネを教えないことは手品の鉄則にして真髄。虚構を《ショーの中の真実》たらしめるマジックの命そのものだったとも言えるでしょう。手品師はショーの中で、常に自分の命のやり取りをするのです。

手品全盛時代、テレビや解説本から簡単に手品のタネを手に入れられた僕のような子供は、それが命のタネであることに無自覚なままでいた。それでも求めるものが喝采であったことだけはアンジャーと同じです。僕は化け物にならなかったに過ぎないのでしょうか。無自覚に命をもてあそぶのは“人間”なのでしょうか。

あるいは、アンジャーは本当に化け物だったのか。本当の化け物とは?

終わりのないショーはありません。ただ、《ショー》の終わりを決めるのは我々自身です。虚構は幕が下りるまで息づきます。

 

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雑記/『パンズ・ラビリンス』と“浄土”

さて、記事の頭に書いた『パンズ・ラビリンス』のラストが死生観でどうのこうのですが、とりあえず、オフェリアちゃんの辿り着いたあの場所が「死んでから妄想なんてできるはずない」ということでガチの異世界と仮定した場合でも、それで結果オーライと考えられるか歯にものが挟まったようにもやもやするかは、人によって少しずつ変わってくるんじゃないかという話です僕がそこへ死生観というものを持ち出してきたのは、まずあの異世界をナルニア的なファンタジーワールドと見るか、それとも《浄土》として意識するかは重要な分岐点なのではないかと思ったためです。

浄土的なものとして意識してしまった人は、魂だけの救済に納得できないか、現実世界で幸せになることにこそ意義があると信じている人ではないかと思います(魂の存在は作品の都合上仮に肯定することにしましょう)。浄土とだけ言うと「浄土で幸せになれればいいじゃないか」と思う人もいてこんがらがるかもしれませんが、そういう人は前者の《ナルニア派》と同じに考えましょう。

少なくとも、オフェリアちゃんが異世界で幸せになるという結論を見たときに、それがつまり「現実世界でオフェリアちゃんが幸せになることはありえなかったことを示す」という解釈を聞いたときに嫌な気持ちになる方は《浄土派》ですね。ちなみに僕はこっちです。

なので僕自身のことにもなって恐縮ですが、ここで言う浄土派が面白いのは、浄土で幸せになることに意味はない(人によっては「浄土なんてない方がいい。信じたくない」)と考えていながら、浄土の存在自体は心のどこかで肯定している可能性があるということです(ナルニア派は「(浄土が)あればいいなあ」が最低水準と思われますから自己矛盾しません)。要は先述の通り、この世で幸せになることの方に絶対的な意義があると思っていて、「そうでなくてもいい」という考え方や浄土はその価値観に反するから嫌な気持ちがしてしまう。「浄土があるから今世はいいや」というような楽観には立ち向かいたいと思っている。それはある意味で、浄土の存在を恐れていると言い換えることもできるわけです。

そして『パンズ・ラビリンス』の表面的な結論において、オフェリアちゃんは浄土で幸せになることとなっています。浄土“嫌い”派の僕には、オフェリアちゃんは現実世界には結局敗北してしまったのだ、というふうに取れてしまって、憂鬱な感想を抱いたということなのでしょう。

 

一応まだ他にも、オフェリアちゃんが苦労していたのは現実世界だから現実世界で報われてほしかった、とか、逆にオフェリアちゃんの境遇は可哀想だけど天国へ行けるほどのいい子じゃないよね、などの思うところがこもごもとあって、やはり一概に分けられるわけではありません。

要は何度観ても考えさせられる映画だということなんですけど、人とどう違うかやどうして違うかは個人的に興味深い話ですからね。僕自身の感想でも2010年*3と2012年*4の二度の観賞でガラリと印象が違っています。ちょうど僕の人生観やら価値観やらが激動した時期を挟んでいる自覚がありますね(笑)。

また二年たったので、そろそろ三回目を観ようかと考え中です。

 

 

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*1:実際ノーラン監督のこの次の作品が『ダークナイト』。

*2:こういう言い方をすると人の言葉は何かをバカにするための理由を供給してくれるためにあると思い込んでいる人々が喜ぶのでなるべくなら避けたいですが、しかしこの言葉が孕むような後ろ暗さをマジックの世界が常に内包する、非常に脆い世界であることもまた事実。その世界に身を置く業と儚さと、背反しながら必ず存在する人の情けとを率直に捉える人が一人でも多くいることを祈ります

*3:旧ブログ記事(※詳細な記述なし):巡った言うほど巡ったわけでもないがとりあえず巡り巡ってふと帰ってきた先がディオンかフム | 雑記帳を破いて捨てた切れ端の走り書き

*4:過去記事:2012,9,15 PM10 【映画録『パンズ・ラビリンス』】 - case.728