映画録59『ホステル』
なぜ二本立て続けで電気けいれん療法の残酷さ*1を目にする羽目になるのか……(『レクエム・フォー・ドリーム』と『カッコーの巣の上で』)。
※case.728の映画録は、5段落前後でまとめる既観賞者向けの参考記事を目指しています。ネタバレ・解説記事ではありませんが、物語の中核には触れているので未観賞の方はご注意ください。
6月26日 ホステル
「助けてくれ! 金なら払う!」
「とんでもない。金を払うのは私の方だ」
1.2005年のホラー革新
2000年代の革新的ホラー映画の一つとして有名な本作。
監督・脚本のイーライ・ロスは『イングロリアス・バスターズ』で「ユダヤの熊」なんて呼ばれるおいしい役で出演するなどで、タランティーノ監督と仲がいいらしく*2、本作はそのタランティーノ直々の総指揮の下で製作されたものです。三池さんも一枚噛んでるとか聞いていたので(まさかカメオ出演してくるとは思ってなかったけど)、さすがにいつか観なくてはと思っていましたがようやく手が伸びました。
普通に何も考えなくていいホラーやスプラッターを期待して観ちゃうとそんなに面白くないよ、とは知人から聞いていたのですが、表面的にも小説じみた展開だったので僕は好きです。確かにあんまりどストレートに怖くはないですね。
迂遠な上にピンポイントで欧米人狙いな怖さなので実感は持ちづらく、でもどちらかといえばかなり“面白い映画”です。そういう意味でも好きです。
タランティーノ監督といえば、懐古主義や痛快さ重視に走りながらも、常にどこかしら新しいものを織り込もうとする挑戦的な姿勢に僕の中では定評があるのですが、その頃のホラー映画事情も踏まえると本作はまさに新しいことづくしで、きっと映画好き向けの映画です。新しい視点を持つというのがどういうことなのかを、本作を通して考えてみるのもいいかもしれません。
2.あらすじ ~東欧道中膝栗毛~
アメリカ学生バックパッカーのジョッシュとパクストンはヨーロッパにやって来た。目的はドラッグと女の子とエロいこと。
ハイテンションなアイスランド人のオリーも加わって、三人はあちこちでエロエロどんちゃん騒ぎ……とおいしくいけばいいけれど、学生二人は良くも悪くもおぼっちゃんで旅行も素人。
オリーはノリで生きてるので彼一人はどうにかなっても学生の頼りにはならない。風俗もいいけど僕らはエロにお金の介在しないロマンスが欲しいよー、行きずりの淡いうんたらとかさー、という二人の心の叫びに答えたのはうさんくさいジャンキー。
「スロバキアにいけよ。戦争で若い男が少なくて白人の男はモテモテだぜ」
それを鵜呑みにした三人は、一路スロバキアの農村ブラスティラバへ。教えられたホステルに行ってみれば、なんと美女たちといきなり相部屋。スパで全裸で意気投合。ぬっぽりしっぽり東欧バンザイ。
ここはこの世の天国かぁー?と夢見心地で朝が来て、すると突然オリーがなぜか、同じく旅行者で同じホステルに泊まっていたアジア人の女の子と一緒に「帰国する」というメールを残して失踪する。
不審に思いつつも美女たちともうひと晩ご一緒したい二人は連れ立ってバーへ。
しかしお酒を飲み過ぎたのか、ジョッシュは一人先にホステルに戻ってベッドへ倒れ込む。そして次に目覚めたとき、ジョッシュは見知らぬ廃墟で鉄の椅子に括りつけられ、周りには大量の外科器具と拷問具が、そして目の前には“外科医”が立っていた……。
3.注文のエロい料理店に注意
あらすじの時点で充分な不信感を抱ける気がしますが、おそらくその感覚の示すとおり、本作の最初のギミックは《旅の宿ぐるみの罠》です。
女性を使って旅行者を誘い込むクモの巣。注文の多い料理店ですね。
宣伝やパッケージ、あるいはタイトルだけを見て館モノやそこに潜む殺人鬼的モンスターを期待した人は、この時点で思っていたのと少し違うと思わされるはずです。知人が普通の期待をするなと言っていた理由の一つもこれでしょう。
しかし決定的に違うとわかるのはもっと後。
おそらくほとんどの人が最初に出てくるこの“外科医”を唯一無二の殺人鬼のたぐいだと思うはずです。
そしてホステルが殺人鬼に獲物を提供する理由を考える。脅されて?金で雇われて?あるいは黒魔術結社が儀式のために偽ホステルを?それとも従業員全員家族でアダムズファミリー?
本作は最初の構造的にも、こうして比較的ミクロな世界観を提示してくるだろうと思い込ませてきます。せいぜい規模が大きくなっても《宿ぐるみ》が《村ぐるみ》に変わる程度。《国ぐるみ》とまで行くと現実感なくなりそう。と思っていたら、なんと本作は最終的に国際規模の話に拡大されてしまいます。
面白いのは、そんな規模の話にしてまったく無理がない設定であるということ。
キーワードとなるのは“国際的な観光スポット”です。
4.不況に強い観光産業
パリのルーヴル美術館の2012年の来場者数は972万人。一日平均2万人とも4万人とも言われています*3。そのうちの7割近くが外国人。当然先進諸国の旅行者が多いことでしょう。
国際的な観光スポットであれば、先進国と呼ばれる国からどんな旅行者が来てもおかしくない。金を払って人殺しができる裏社会の有名エンタメスポットもまた、お金のある国からお客が来るのはまったくおかしくないのです。
本作のホステルおよびブラスティラバの村はまさにそのガチ裏スポット。“外科医”はただのお客の一人であって、村に根差した殺人鬼などではありませんでした。
本作がすごいのは、この舞台設定が《金持ちのあそび場》として絶妙なリアリティを追いかけているということ。
その有料殺人施設に見張りがいてガードマンがいて、というのは当たり前として、施設を置いているのが東欧の非先進国家*4の田舎町というのも、とりあえず隠匿性の面で申し分ありません。と同時に、西欧先進諸国やアメリカなどにとってのそういう国というのは、古い日本にとってのフィリピンやタイに行くような感覚で旅行に行く先だと聞きます。無論、女の子を求めて行くわけです。
嘆かわしいかどうかは置いておいて、先進国の人間が非先進国へ風俗目的で赴くというのはわりと自然な構図の一つとしてあるようです。つまり先進国の旅行者ホイホイとして東欧の田舎などはピンポイントに使えるわけですね。
このあたりのリアリティに基づく怖さが、ホラーに幽霊や殺人鬼などのファンタジーを求める人とは食い違ってしまうだろうとは思います。昨今の人はただでさえジャンル意識に凝り固まっているようですし(僕も人に話をするときは楽なので利用しますが)。
それにこの舞台設定が持つリアリズムは明らかに欧米向けのもの。別にフィリピンじゃなくてスロバキアだからというだけの理由ではありません。
あちらの人々はちょっと隣町まで遊びに行くような気持ちで気軽にヨーロッパ諸国を旅するようですが、自分の街からも積極的に出ないような最近の日本人が《旅先の恐怖》みたいなものを見せられてもピンとこないのではないかと思います。
ただ、リアリティの追究には“日本”という国もちゃんと使われているんですよ。ここで一枚噛んでいるのが三池監督です。
彼のカメオ出演をただのタランティーノ繋がりで仲がいい同士の茶目っ気だと解釈してしまうのはすこぶるもったいないことだと言えます。もちろん友情出演的な面もあるでしょうが、先に日本という国がなんだかんだ言ってもアジア随一の先進国だという国際イメージ(少なくとも日本贔屓の映画監督の中ではそう偏ってる気がします)を踏まえた上で、日本人である三池監督が《本人役》として、あの施設の客の立場で出た意味を考えてみるのがよろしいかと思います。
“獲物”の側にも日本人*5の観光客がいましたよね? 日本という国は本作にとってとても自然に必要な要素だったのです。
どうして三池なんだ!と合点がいかない15歳以上の人は彼の『オーディション』を観ましょう。ぜひ観ましょう。タランティーノ監督も大好きだそうです。
Audition (1999) - YouTube(R-15+)
5.金が闇を作るわけではない。
本作の終盤、パクストンが殺されかけたところからは逃亡劇、復讐劇と作品の様相が変わっていきます。
逃亡に成功したのはなんとも間抜けに思える“客”の失敗のおかげですが、あれはあれで殺人鬼的なファンタジーを否定した結果です。金を払って大義名分を得たところで、結局人殺しに関して客はド素人。パクストンはおそらく歴々何百人といた“獲物”の一人でしょうから、茶飯事として起こり得る不測の事態が重なって脱出に成功してもリアリティが崩れたとは思いません。
また、あの施設にでかい組織が絡んでいる可能性は十分ありますし、そうでなくても各国の金持ちが軒並み共犯とあってはパクストンに社会的な勝ち目はありませんから、「さあ、告発だ!」というような無駄に大きな話にもならないわけです。
そこで小さくまとめるためのオチとして、パクストンは帰りの列車で見かけた“外科医”を殺してどうにか親友の仇を取ります。この脚本は安っぽく思えるかもしれませんが、本作あくまで求めている舞台設定のリアリティを最後でダメ押しするにはわりと必要だった流れです。
この復讐のくだりには二つの恐怖が介在しています。
一つは、中盤で殺人鬼だと思っていた“外科医”が結局あの施設の単なる客の一人に過ぎず、平時は普通の人として普通に家庭があり、社会的地位があり、だから列車の中でばったり出会うことも普通にあるだろうということ。もう一つは、客たちが“快楽”として有料殺人施設を利用していたのに対して、パクストンが親友を殺された怒りや自分が殺されかけた恐怖を払拭するために客の一人を殺したことの間に、さしたる違いはないということ。
仇を取ったんだから客たちの“快楽”とパクストンのスッキリは違うと思われるかもしれませんが、パクストンは結局施設そのものを倒すことはできませんし、“獲物”を調達してくるのは客ではないので客を殺した後の被害者が減るわけでもない。客の一人を殺すというのは、結局パスクトン個人の憂さを晴らしたに過ぎないわけです。
そして客たちが殺人の“快楽”を求めるのも、おそらく日常による抑圧や徒労から解放されるためであって、少なくとも全員が破綻者であるわけではない。もし破綻しているとすれば、それは人間すべてである、という極論がわりと容易に導き出されてしまう構図になっているのです。
その証拠の一つと言いたいですが、“外科医”を殺した駅から列車で立ち去る際のパクストンは現実味のなさそうな悄然とした顔をしています。あんまりこの言葉は使いたくなかったんですが、あの時の彼はまさに《賢者モード》。皮肉にも彼が求めたセックスの後にあるものと殺人の後にあるものが同じだったわけです。
本作の結論自体は、「普通の人間が一番恐ろしいね」という今や聞き慣れてしまったものなのですが、2005年の時点ではまだそこそこ新鮮だったのでしょう。それに、なんやかんやいってもそのテーマを徹頭徹尾追究できている作品は貴重な秀作です。
*1:『カッコーの巣の上で』の電気けいれん療法はかつて問題視された精神病院内の懲罰としての流用ですが、『レクイエム・フォー・ドリーム』の方のはちゃんと効果を見込んでの医療行為であって、療法自体が残酷という意味ではないです。詳しくは後日の二作それぞれの映画録で。参考:電気けいれん療法 - Wikipedia
*2:映画録書きませんでしたが『アイアン・フィスト』も観ました。もう何も考えずに観るのが一番楽しい映画でしたが、あれってジャンル《武術映画》なんですねww
*3:365日で割る単純計算で2.6万人強ですが当然休館日がある
*5:実際はジェニファー・リムという欧米人ですが、とにかく日本人役です