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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

映画録63『ビザンチウム』

映画

あいかわらずTSUTAYA DISCASにお世話になってますけど、時々次のレンタルが決まる前にレンタルリスト編集するの忘れちゃうことがあります。こないだそれで『グランド・イリュージョン』が来ちゃいましてね。

そうですよ、先月『プレステージ』を観て目が回るほど感激したばかりなのに、またマジシャンの映画が来ちゃったんですよ。しかも他のレビューもチェックして「あ、これはもう観ない方がいいな」と考えていたのにです。

もうそこで素直に送り返せばよかったんですけどね、変なもったいない精神を発揮したりなんかしたせいで、案の定ゲンナリ。いや事前に『プレステージ』観てなくても同じくらいだったとは思います。

 

もう酷評につき、そっちの映画録はパスということで。7月7日のことでしたとだけ。

 

 

※case.728の映画録は、5段落前後でまとめる既観賞者向けの参考記事を目指しています。ネタバレ・解説記事ではありませんが、物語の中核には触れているので未観賞の方はご注意ください。

 

7月8日 ビザンチウム

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「あなたに物語を書いたんじゃない」

 

1.斬新ではなくも、何かが新鮮な“吸血鬼映画”

 

先にどうしようもない愚痴を言いたい(長い)。

僕は『ぼくのエリ 200歳の少女』が映画としてあまり好きではない人間なのですが、レビューサイトなどを観ると同作の評価は安定して高めなんですよね。いつもは「好みも価値観もよくわからない人々が★の平均値を見て妙な駆け引きをしているレビューサイト」なんて予告詐欺に引っかからないための参考にしたりしなかったり程度にしか見ていないのですが*1、『ぼくのエリ』に関しては高評価のまとまり具合がやけに鼻につくんです。

どうまとまっているかといえば、一様に言われているのが「“吸血鬼モノ”として」の好評であるということ。映画としてのどうのこうのを差し置いても、“吸血鬼”というジャンルにどれだけ貢献できているか、を重視したコメントがやたら目立つこと。

“吸血鬼モノ”が好きなのはわかるし、好きな人が観るのもわかる。しかしあの手の「設定がー」「伝統がー」という意識の集団化じみたものを見かけると、この“鎖国”っぷりは一体何なのだろう、と考えてしまいます。むしろ高評価があること自体は別段おかしくないことだとも思う分、“吸血鬼もの”としてのこだわりを抜きに高評価を与えている人が見当たらないことがかなり薄気味悪い。この薄気味悪さがまた鎖国っぽさに拍車をかける。

最初は僕の中で『ぼくのエリ』の評価が低いこと*2とこの件はあんまり関係なかったんですけど、いろいろ観ているうちにどうもやっぱり吸血鬼の扱われる作品にこの鎖国的な風潮はつきまとうようだぞとわかってきました(本作もレビューサイトへ行くとそんな感じ)。そうしてそうなってくると、もう吸血鬼というジャンルそのものにうんざりしてくるのが僕という人間です。ファンタジーにもかかわらず創造性を愉しむことを禁じられて、煮詰まったものだけを延々なめ続けて喜ばなくてはいけないかのように思えてくる。

無論思い込みですが思い込みはモチベーションと密接に絡む重要な要件。そのうちマイナスのものは払拭されたいわけです。

それってなんやかんやで僕は“吸血鬼モノ”が好きってことなんじゃない?

そうです。“不死”とか“捕食性”に基づく業やら苦悩やらは、普遍的に描かれる価値のあるものだと思っています。しかしそれ以外は、ただ“吸血鬼”という名のアメをしゃぶらせておけば大人しくしているようなタチでもない。筋肉や爆発と違って凝った設定だからこそ、新鮮さを要求したくなる。煮詰まらないことを喜ぶことこそが僕の映画愛だと言い替えてもいいでしょう。『ダーク・シャドウ』は脚本は正直アレだったけれど創造性だけでいえば申し分なかったと。

そして本作『ビザンチウム』を観たときに思ったのは「そうだ、これだ!」という、自分の要求が叶ったときの歓声。本作こそはまさに《煮詰まらないアーキタイプ》。それは、よく見るブルーレイのCMの煽り文句のような「まったく新しい!」という感慨ではなく、普遍的に価値のあるものを描きながらも既存の枠を“気にかけない”という自由度と、そこに起こり得る創造性とを、“吸血鬼”というジャンルにおいて思い出させてくれたのです。

そうだよ、僕はこういう“吸血鬼”が観たかったし、吸血鬼モノはこうあるべきだ!

 

 

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2.あらすじ~私の物語は誰にも語れない~

 

人の血を吸って生きる不死の少女、エレノア(シアーシャ・ローナン)。16歳の姿のまま、8歳年上の姿のクララ(ジェマ・アータートン)と共に、二人だけの放浪生活を送る。クララは娼婦だ。それ以外の生き方を知らない。そしてエレノアを何よりも大切に思い、彼女に何もさせなかった。エレノアは16歳の姿のまま、16歳の心のまま、誰にも自分を打ち明けられず、“食べる”以外何もせず、孤独に生きていた。死に際の者を選んで語りかけ、血を奪うまでの短いひとときだけが、彼女の孤独を癒やし、しかしその後で必ず深く傷つけていく。

200年がそうして過ぎた。あるときエレノアは少年(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)と出会う。美しきエレノアに惹かれる者は多い。彼は何人目だろう。何度も声かけてくる。しかし死に際にない者とエレノアは関わらない。秘密を知れば、彼を生かしてはおけない。掟だ。ただ、何百人目かのその少年は白血病を患っていた。それを知ったとき、エレノアの“渇き”が揺れる……。

 

 

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3.男女と見せかけて母娘

 

上で“吸血鬼もの”としての本作への思いは熱く語りましたし、あらすじは多少感傷的に書かせてもらいました。なのでここからは淡泊にいきます。

脚本自体はかなり少女チック(not 乙女チック)というか、そう言い切るには随所にゲテモノ感がありますが、とにかく200年思春期をこじらせてしまった人喰い少女の苦悩と青春が骨子です。「誰も私のことを分かってくれない」ってやつですね。200年心の成長もないってあたりはもういい感じにファンタジー。なんかもういろいろ焦げついてそう。僕は好きですよ?

ネタバレかとどうか微妙なところですが、最初姉妹っぽく出てくるクララは実はオカンです。この世界観では吸血鬼(不死者)は呪いのほこらみたいなところを訪れることでヒトから後天的に“生まれる”存在で、同時期に吸血鬼になったのでなければ見た目の年齢がずれます。クララは18までにエレノアを産んでから吸血鬼になって、その後しばらくして16になったエレノアを吸血鬼にした。ずっと赤ん坊のままだとかわいそうだけど、エレノアが自分の年齢を越える前に自分と一緒にいられるようにしたかったわけですね。しかも不死になったおかげで、病気も老化も怖くない、ある意味最強の娼婦として宿無しでもエレノアを養っていける始末(美貌は生来のもの)。こちらはこちらで200年過保護をこじらせていたようです。

本作が面白いのは、“庇護者”がこうしてちゃんと、それなりに業の深い者としてクローズアップできる点です。子どもに焦点が当たるときはやっぱり大人の描写が重要になってきます。大人はわかってくれない→でも大人も大人なりに頑張ったり何かに囚われたりしてるんだよ!→双方焦げついていく、っていうのが人間ドラマとして熱いですよね。虚栄の市。愚かの祭典。何より僕のような人間は、そういう見せ方をしてくれてないと素直に「エレノアかわいそう!」などと言って愉しめないのです。

 

 

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4.幻想とスマートさの良バランス

 

白血病の少年フランクも、見かけはそんなに大げさでなく、程よい感じのエッセンス。何より脚本的にはある意味無難である意味良質なチョイスです。

昨今の《難病に陥ればお手軽に感動を呼べる》風潮を見ながら白血病と聞くと、正直「また白血病かよwww」と思いたくなるのですが、本作で出てくるときれいなもの。実際そこまで深刻に珍しい病気でもありませんから、「人生五十年」で出会えなくても200年ならありうるかもしれない。しかもエレノアは放浪生活をしているくせにさらに放浪癖があるという奇特さの上に、男が自分から寄ってくる容姿ですから自然に遭遇率は跳ね上がります。このぐらい必然性を高めておけば、フィクションとしてはそんなに見づらくもないでしょう。

必然性といえばクララの美貌からも言えます。そもそもクララは娼婦に“された”身の上で、さらにその下手人であるルヴェン(ジョニー・リー・ミラー)に気に入られなければ吸血鬼になることもなかったと考えられる以上、彼女の美貌なくしてこの物語は始まらなかったわけです。ツッコミどころがまるでないというわけではありませんが、こういう必然性の処理などにおいては、わりあい綺麗に仕上げられていますね。

唯一存在しないことを強調したい必然性は、本作が“吸血鬼モノ”である必然性。しかし実はこれこそが上述した“新鮮さ”の素でもあります。これが一段落目で書いたことの結論。

吸血鬼モノでないとできない作品というのは、結局のところ既存の“吸血鬼モノ”という概念に依拠することで価値を作り出すものであり、ジャンルそのものに対する創造性には欠けてしまうし、ジャンルに縛られる。しかし本作は“吸血鬼”を外付けのように取り入れて、作品内の幻想の一つとして落とし込んでいる。本作における“吸血鬼”とは、脚本が許された自由意思で選択した“嗜好”に過ぎません。その自由度こそが、創作において素晴らしいと言える現象であり、ある意味で作り手の自然体的な真摯さとして感じられるものだと僕は言いたいです。少なくとも僕は、「みんな吸血鬼が好きでしょ?」という押しつけがましいのよりも、「私が吸血鬼を好きなんだ!」と潔い声が聞こえてくる方が好きですからね。

 

 

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5.それにしてもシアーシャ・ローナンがかわいい

 

中見出しの通り。それがすべては言いすぎにしても、彼女だけ眺めるために本作を観るのも悪くありませんね。誰あろう、『天使の処刑人 バイオレット&デイジー』のデイジーですが、そちらのあどけなさよりも本作はか弱さとか陰のある感じとかでまた違った趣の少女性が炸裂しています。

彼女のイメージは、僕の中では野生の鹿に近いですね。とてもきれいなのにエロスを感じさせられない、その一方で無垢ともかけ離れた、神秘的で近づきがたい“少女”という印象。かといって聖女というには土臭い。エルフ?

かなりはっきりした明るい目の色で瞳が小さく見えるのも、野生の鹿と目が合ったときのような双方動かないときの静謐さが彷彿とされて、やはりこう何か不思議な気持ちにさせられます。それのどこが可愛いんだと言われそうですが、こういう何か近づきづらいくらいきれいな要素を人間の女の子が持っているという事実が魅力的なんです、たぶん。これがまた本作のエレノアという役にはぴったり。

この女優さん、地味といえば地味なんですが、それでももっと人気出ないかなあ。出演している最新作の『グランド・ブダペスト・ホテル』も、ちょっとイロモノ臭がして気になる作品です。

 


映画『グランド・ブダペスト・ホテル』予告編 - YouTube

 

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ぼくのエリは原作読んだ方が何倍も楽しそう。

MORSE〈上〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

MORSE〈上〉―モールス (ハヤカワ文庫NV)

 

 

*1:個人サイトは運営者の好みという傾向が分かるのでいつも重宝させてもらってます。

*2:総括は「致命的に合わない」だけど2年前の若い僕ほど苛烈に嫌ってはいない。過去記事:2012,11,18 PM8 【映画録『ぼくのエリ 200歳の少女』】 - case.728