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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

映画録72『チョコレートドーナツ』

映画

やったよー、ついに最新本格時代劇映画『蠢動』がレンタル開始だよー!観たかったんだよー!

 

在庫5枚てェッ!!?(゚∀゚”;)

 

そしてレンタルリスト一位登録者数が130人オーバー。二位も70人。ウェイトかけてもいつ来るんだこれ…。

もう待つのが嫌ならDISCASは諦めて別のところで探したほうがよさそうです。またペース落としたいし、この機にTSUTAYA一旦休会にしとくかなあ…。

 

 

※case.728の映画録は、5段落前後でまとめる既観賞者向けの参考記事を目指しています。ネタバレ・解説記事ではありませんが、物語の中核には触れているので未観賞の方はご注意ください。

※今回はおうち鑑賞ではなく劇場鑑賞でしたが、公式の公開時期ではなく、ログとして紛らわしいのでいつもの映画録として書きます。ローカルのちっちゃい映画館で流してくれてました(^^)

 

8月5日 チョコレートドーナツ

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「これは誰の審議ですか?」

 

1.今また語られるべき70年代の実話

 

まずこちらの5段落目→映画録67『マンハッタン恋愛セラピー』 - case.728

で、その滅茶苦茶かっこいいアラン・カミングですよ。公式の公開時期ではありませんが、地元商店街のローカル映画館が自主上映してくれてたので、通りすがりに飛び込んできました。あの日は近くに用があって運が良かった!

あいかわらずゲイというキャラクターが好きです。とか言うと変に誤解されそうですが、まず僕はどこにでもいる異性愛者。ムチッとした大人のお姉さんをエロイと思う。そして背中フェチ(もういい)。それから日本のサブカルの「腐」という文化にも興味がありませんし、たぶん知ってる人からは「それじゃない」と言われるはずです。「オカマが好き」でいいんですけどね、わかりやすさで言えば*1。この頃は言葉狩りがうるさくて。

被差別とかにも興味が尽きないわけですよ。その手の社会問題とか。だから障害者とかも同列に関心がありますね。リアルでそういう話に突っ込んでいく勇気もないのにあまりそういうことを言葉にするのは褒められたものではないとも思いますが、そもそも義憤に駆られるとかそういう知性のある動機じゃないわけです。結局僕はただの民俗学オタク。これも見方によっては充分不純ですが。

さてしかしまあ、本作は1970年代のアメリカが舞台ですが、アメリカ映画でまだこの手の話が受けるということは、平等主義先進国だと思っていたアメリカであってもやはりまだまだ厄介なところをうろうろしているわけなんですね。特に本作は、ゲイにヤク中にダウン症児に児童保護と、公民権運動が落ち着いた後から現代までのアメリカにおける平等主義やら人権重視やらの新たな礎となっただろう問題課題がてんこ盛りのアンサンブル。しかもその華麗な脚本がなんと実話。社会が変わろうと思っても人が変わらなければいかに遠き道だったか。いやさ、本当に人だけを見るならまだまだ終点は遠いのかもしれない。どうなの?そんな現実をガツンと食らわせてくるだけに、ひたすら観る価値のある映画だったと思います。

 

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2.あらすじ ~愛してあげられるなら誰でもいい。たとえ私たちでも~

 

アメリカ、カリフォルニア州。70年代の終わり頃。検事のポール(ギャレット・ディラガー)は運命の出会いをした。何気なく立ち寄ったゲイバーのダンスステージで、口パクで踊っていたルディ(アラン・カミング)。ゲイであることをひた隠しにして生きてきたポールだが、彼の足は自然とルディを求め、店の楽屋へ向いていた。ルディも彼を一目見て、とてもチャーミングだと感じる。ポールは自分の連絡先を彼に教えた。

一方、ルディは心配事を抱えていた。アパートの家賃のことではない。隣の部屋にジャンキーの女が住んでいるが、彼女には子供がいるらしいのに、毎晩男と遊び歩いているようだ。ある朝、大音量でつけっぱなしにされたオーディオに業を煮やしたルディはついに隣の家へ怒鳴り込むが、そこに女の姿はなく、太った子供が部屋の隅に座っていた。一目見てわかる。ダウン症児。マルコと名乗った彼(アイザック・レイヴァ)にルディが朝食を与えていると、警察と児童保護局の人間が踏み込んできて、マルコの母親が薬物所持で逮捕されたことを告げる。ルディと別れ、乱暴な局員の手で施設へ連れていかれるマルコ。彼はしかし、ここは自分の家ではないと呟き、その晩のうちに施設を抜け出した。

あてどなく夜の街を歩く。マルコは帰り道がわからない。人に尋ねることもできない。そのまま橋の下で凍死してしまってもおかしくなかった。そんな彼を偶然見かけて捕まえたのは、ほかならぬルディとポールの二人だった。二人はマルコの目を見て、このままずさんな保護施設に返すくらいならと、共にマルコの里親となることを決意する。

 

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3.大人の勝ち負けで決まる子供の未来

 

マイノリティに対する差別や偏見がまだ本当にひどかった70年代の話ということをわきまえなくては、さすがに気分が悪くなって吐き気がするような内容です。ゲイへの偏見がメインですが、他にも児童保護のあり方や重篤障害児の扱い、人というものに対する法廷の審議のあり方まで、幅広くその当時のアメリカ社会の瑕疵が取り上げられています。本作の脚本だからこそそれができたと思われるのが何よりすごいですね。

特に本作の真の舞台は法廷にあります。言い方が劣悪で恐縮ですが、「この時代の法の番人にはクズしかいねえのかよ!」という気分にさせられること請け合いです。さすがにこの煽られぶりを自省するに恣意的な描写じゃないかと疑わなくもありませんが、差別や偏見が法廷の場にまで概ねあのようにあったという事実のデフォルメとしては、それ以上のさしたる誇張がされてはないでしょう。

法廷に対する一般認識は倫理の最終関門です。専門家が何と言おうと。その場に人の感情は良心と誠意だけが介在し、悪意は何より早く除かれる。そうでなくては悪意の累積によって平等の理念は歪められるでしょう*2*3。それが許されないはずであると信用されるからこそ裁判所は成り立つのだと思っています。にもかかわらず、悪意の介在が当然のこととして前提され、悪意とみなされもしないなら、矢面に立つ人は絶望せざるを得ません。路上の悪意と同列のものであればなおさら、同列以下ならことさらです。

 

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記事冒頭にも引用した「これは誰の審議だ?」は劇中でポールが判事に向かって口にした問いですが、これがあるくだりが一番印象的です。子供の未来を決めるはずの場で、検事はひたすら自分の勝利と偏見の擁立による嗜虐心の満足、「バカにすべき相手をバカにすること」を追求していました。これがいかな建前を持っても悪意とみなされない謂れがあるでしょうか。

マクスウェル お前は今、神につかえる事をやめた 神の力につかえている! ええ? そうだろう? ーーアンデルセン神父、『ヘルシング』より

差別や偏見の問題はそれそのものにあるとは僕は思っていませんね。それを凶器に嗜虐や迫害へ容易に走る人間の存在こそが真の問題であり、それさえなければ「差別」などというそもそも悪意的な言葉は生まれなかったのでしょう*4

 

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4.I am Marco. I'm here.

 

差別というところに焦点を絞りたいなら話がずれてきますが、本作をなんとなく眺めていると『アイ・アム・サム』を思い出したりもします。本作と比較をしたくなるわけではありません。ただ、もしもマルコに観せてあげられたら、きっと彼は喜んでくれるでしょう。彼はハッピーエンドに目がないそうなので。

言葉のない人間というものに対して社会は押しなべて厳しいものです。障害者に限った話ではないのは、就職あるいは就職活動をしたことのある年齢以上の人なら誰でもわかることでしょう。それ以外の手段にコミュニケーションをほとんど依存していないのだから、それをササッとどうにかしろなんて無茶を言うなという話でもあります。努力次第で言葉を持てるはずの人々は努力する方が先。しかし、サムやマルコのように努力してもどうにもならない人にとって、社会は厳しいだけのものです。

彼らのハッピーエンドは、周囲の人の愛によってしかもたらされない。ほとんどギャンブルに近い運勢ゲーム。サムは体は大人になれたので、自らも人を愛することによって反響を得ました。それはそれで彼の努力でしたから、サムはおそらくマルコのヒーローにはなれるはずです。ただ、彼の愛に反響を与えたのは、彼の幸運な出会いでした。そしてマルコもまた幸福な偶然の出会いを得ていた。彼らはどちらもハッピーエンドの種を引き当てていたのです。結末において命運を分けたのは、その種の近くにいられたかどうかだけ。彼らのハッピーエンドは、周囲の人の愛によってしかもたらされない。偶然の幸福に二度目の奇跡はない。そのことを、サムはあたたかく明快に、マルコはビターに教えてくれました。

 

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5.ゲイ役のアラン・カミングもうかっこよすぎ

 

いいかげんしつこい(笑)。というかあまり役者本人の名前ばかり出していると彼自身がかっこいいみたいですが(それもそうなんですが)、本作だけに目を向けたときにちゃんとルディがかっこいいんです。僕の中で映画三大オカマ*5の一人に見事収まりましたよ。

細かいことは気にしない。子供がお腹を空かせていたら食べ物を与えるし、かわいい男が言い寄ってきたら気前よく答える。人の好意に恐縮してうじうじしたりしないし、背中を押されても押されなくても走り出せる。しかしそうやっておおらかな態度を取りながらも、実は繊細で神経質なところもあって、人の健康に気遣ったり、マルコの前では本当に女装をしなかったりと、真の意味で彼こそ人間臭くてチャーミングな男性。そして何より、どんな母親にも負けないほど慈愛にあふれる父親でした。もし僕が彼の息子なら、多少自分の出来が悪かろうと自己嫌悪に陥って抜け出せなくなるなんてことはなかったかもしれません。

そもそも、大人が格好良ければ、子供はぐれねえんだよ。――陣内、『チルドレン』より*6

ルディはまさにこの言葉を体現できる大人の一人かもしれない。もちろん彼一人の力によってではありませんが、マルコもポールも彼といて、そして彼もその二人とともにあって、三人が一緒にいて笑い合う時間が、この世で一番幸せな光景だったに違いないと、本作を思い返すたびに思うのです。

 

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*1:「かっこいいオカマキャラ」というフィクションのキャラクターが好き。リアルにまで幻想を抱いてはいないが、そういう人が実在したら楽しいだろうとは思っている。

*2:行き過ぎた正義もまた偏見であり、介在してはならない。法はただ人の正義の欲求を満足させるためにあるのではない。それは時に手段であり副次的な目的ともなりうるが、主たる目的は常に調和と秩序である。というのが僕の分別。

*3:これを悪に利用されることも多々あるが、それは法の限界である。だからこそダークヒーローは求められるのだ。少なくとも法だけに無限の可能性を期待してはならない。

*4:差別は身を守るためにあるという考え方もできる。路上でチェーンソーを振り回す人間を「差別」しなくては、自分の身が危ないと思うのは当然の心理だ。しかし法の場で悪意という名の矛を振りかざしてはいけないのと同じく、身を守る盾も求めてはいけないのではなかろうか。丸腰だからこその平等が、超然たる最終関門には求められる。もちろん、傍聴の個々人や証言台に立つ人が盾や矛を好き勝手に求めるのとは話が別だ。法の番人は罪を裁く前にそちらを捌いていくべきだろう。

*5:一人目は『メゾン・ド・ヒミコ』の卑弥呼、二人目は『あずみ』の最上美女丸。後者はゲイではない可能性が高いが、オカマではあると思っている。また、『ダラス・バイヤーズクラブ』のレイヨンを入れて四大オカマにもなる。ただしオカマにあまり優劣がないこともまた確かである。

*6:同じ『チルドレン』の作中には「世の中にいい親なんていない」という台詞があるし、普遍的にこんな親なら子供がぐれないという真理が存在しないことなども誰にでもわかる事実だ。ただこの「大人が格好良ければ」は、まさに「完璧にかっこいい大人」にというものがありえないと分かった上で、そうありたいと願い続ける切実な人の姿を現しているとも言えないだろうか。そしてそう懸命に願い続け、求め続ける姿こそが、真に愛されるべき人の姿ではないだろうか。少なくとも、不可能だからといって願うことからさえ目を背けるような人間を、ぼくは愛そうと思わないし、子供じみていると言って軽蔑すらする。そこで鷹揚になれないのは僕が格好悪い大人である証拠だが。