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映画とお人形ばかりで恐縮です

劇場映画録『インターステラー』

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犬を飼うぞーと宣言してからこっち、ふとするとそばに犬がいる幻覚ばかり見ています。はっきり具体的な像まで見えちゃってるわけじゃないんですが、そこにいる体で手招きしたり話しかけたりするのが無意識に腕組みをするのと同じような癖になってるんですね。ペットロスならぬペットレス症候群。前回散々持ち上げた「五月病」なんてまるで問題にならないくらいこれは普通にやばいんじゃないか?('ω';)


インターステラー』を観ているときもふと気づいたのは、あの手の映画にしては珍しく(と先入観を抱くほど頻繁に見かける)〝イヌ〟の姿が見えないこと。種という単位で考えたとき、人間にとっての“社会的な隣人”と呼べる唯一のものが、イヌであることは明白でしょう*1。それは人間社会の文化でもあり、イヌという種の家畜としての独特な進化のかたちでもあると、もともと自然科学畑で飛んだり跳ねたりしていた人種としては思わずにいられないわけです。
その人類唯一の共生種さえもどうやら消えてしまった『インターステラー』の地球。イヌは人間にとっての社会的存在であるとともに、遺伝子に野性的本能をちゃんと残している自然的存在、すなわち〝動物〟でもあります。人間の隣人でありながら彼らは自然の側を歩いている。ひそかに生命力においてもトップクラスで、自然の災害から人を助けたりもする。自然からのはみ出し者どころか、人間社会の中に自然をぐいと引き込む者。イヌが社会から、世界からいなくなって初めて、人間は自然から、惑星から孤立し、ただ一つの特異的な種として宇宙へ放り出される。生命のない宇宙空間での孤独と、自然を感じさせてくれる隣人のいない惑星の上での種としての孤独に、まるで同じものを感じざるをえません。


以下、ネタバレを含む感想文。




インターステラー』は、驚愕的にロマンチックな映画。
スリルもある。後半の展開は息つく暇もないまさに怒涛。見かけも中身も本格的SFらしき様相を呈し、にもかかわらず、その芯にあるのはひたすら“時間の価値”と“孤独”への感傷です。
まさに千年の孤独を憂うようにして広大な宇宙を眺め、堅実な希望を渇望しながら、まるでファンタスティックな“現実"がそれに応えます。


宇宙空間の描写において、星々の瞬きの中宇宙船が航行していく様を描けば、無限に等しいそのスケールで圧倒してくるかと思いきや、なぜかひたすら寂しさを心細さを感じさせられる。宇宙船の外には何もなく、ただその船だけが主人公たちの家であり、寝台であり、棺桶にもなりうることを否応なく思わされる。どこへも行くことはできない。無限の世界を眺めながら閉塞感に胸が詰まる。孤独。宇宙船に対して外からの遠影をあえて多用はせず、船外に据え付けられた整備用カメラのようなアングルで、そのカメラに備え付けのマイクのように無音から拾える音はなく、BGMもない映像を挿入し、僕らに“壮大さ”の訴えによる抜けるような感銘を与えずにおくところからこの映画の感傷は始まっているのでしょう。宇宙が広いのではない、我々が極微小の存在である、を前提の真理として壮大な物語が進むのです。


“時間”を取り上げるにも同様に、人間程度の体積・質量がいかに矮小な存在の証であるかが強調されます。
僕自身は物理学に疎いので一般も特殊も相対性理論というものをさほど理解できてはいないのですが、「重力が大きくなると時間の流れが遅くなる」というハナシくらいなら、“とりあえずそういうことらしい”とするような雑学レベルの知識として知っていますし、一般的にも聞いたことがあるという人はそれなりにいると思います。
無論、通常なら1G、ジェットコースターでもせいぜい6Gの世界が限度な地球という惑星にいる限り、その程度では極微にしか現れない〝時空の歪み〟を僕らが体感することは一生一度としてないことでしょう。
そしてそれは、間違いなく幸せなことです。

人類の移住可能な惑星を求めて宇宙へ飛び立った主人公たちは、最初の候補として超重力の星に辿り着きます。その惑星では重力の影響で、「1時間が地球時間の7年に相当する」というとんでもない時空の歪みが発生していました*2。地球滅亡が秒読みであることを考慮して、「パッと降りてパッと帰る(重力圏外へ)」という作戦を立てる主人公たちでしたが、結果的に23年余りの時間を一瞬にしてロスしてしまうことになります。ワームホール越しの通信によって送られてくるビデオレターの中で、地球に残してきた子供たちが大人になっていく様を、母船に戻った主人公はシートに沈み込むようにして眺め続けます。


「時間の流れとは相対的なものである」というのも物理学および相対性理論における真理です。本作にも登場します。
やっぱり物理学に疎かった僕はしばらく考えないとわかりませんでしたが、要するに時間の流れというものへの付加価値には「遅い」と「早い」しか存在せず、間違っても速度がマイナス、すなわち「過去へ引き返す」ことが絶対にあり得ないということです。
時間は常に一定の方向にしか流れない。すなわち未来へ。たとえば、物体が光速へ近づくことで時間の流れが今度は早くなるというのがいわゆる特殊相対性理論ですが、たとえ一度遅れた時間の流れをそうやって元に戻したとしても、過ぎ去った時点、すなわち過去へ行くことは絶対にできないのです。何かを追い越すときに追い越される側は追い越す側から見て後ろへ下がっていくように見えますが、しかし実際にバックしているわけではない、という話と同じことです。

つまるところ、いかなSF世界といえど、むしろそのSF的なところを支える宇宙の真理として、過去へ戻ることはできないと前提づけられている。
惑星が起こした時空の歪みの中に巻き込まれれば、人類ごときは抗うことができない。〝時間〟はガチガチの真理に守られ、決して人類の手の届かないところを悠々と流れていく。その現象は不運や突発的に起こったものではなく、はるかな過去から続いてきたもの。それもまた人類とは関係なしに。そのあまりの無干渉ぶり、不可侵ぶりに、宇宙での孤独はさらに深まります。録画された“巻き戻せる”ビデオレターに見入るシーンでその実感を得るあたりにまで、皮肉げな寂寞を覚えてしまいそうです。


人類は極めて三次元的な存在。タテ、ヨコ、高さ。長さと重さ。体積と質量。三次元的な存在であるということはそれら三次元的な概念にしか干渉できないということ。たったの三つしか干渉できる次元を持たない僕たちでは、三次元ですら極大な宇宙に対して丸きり為すすべがないことを、『インターステラー』のエキサイティングな宇宙旅行は訴えかけてきます。
いかなる努力をしようとそれが三次元的な干渉である限り、宇宙では小数点第20位以下の数字のように揉み消される。電卓の枠外のように消されもせず紛れて無きものになる。実質的に宇宙に対して人類は、干渉できる次元を何も持たないチリにも等しい存在だとさえ言えるでしょう。
自ら求めた物理学の真理の中で、人類は価値を見失う。0次元。いなくても同じ。いないのと同じ。けれど確かにここにいる。僕らはもはや不条理な存在なのでしょうか。いいや違う、と『インターステラー』のロマンチズムはそこへ来て答えるのです。人類が干渉しうる最後の次元的要素があるかもしれない。物理学的な計測さえも可能だと仮定するならば、それはすなわち〝愛〟であると。


そもそも、〝愛〟が物理学的に計測可能な事象であるかもしれないという仮説からして、驚異的なロマンチズムです。
一般的な理解に常に懐疑的な僕は勘違いしないでほしいと訴えたくなりますが、計測や数値化が可能となることによって〝愛〟の価値が貶められることは、理系的な目で見ればあり得ません。〝愛〟は掴みどころがなく計り知れないからこそ価値があるだとか美しいとか主張したくなる気持ちがあってもおかしくはありませんが、その点の否定になろうというわけではないのです。
わかりやすい例えを言えば、〝色〟がその一つでしょう。色もまた数値化して表現できることは知っているでしょうか。しかし〝色〟をどう数値化してみたところで、赤より青が偉いとか、何色が優れているとか劣っているとか、白が善で黒が悪とかは純粋にはないはずです。色以外にも、角度とか、匂いとか、数字で表現できるからと言って優劣が決まったり、そもそもの価値が変動したりすることがないものはたくさんあります。


愛が、愛だけが人間における特異的な現象である、というのはとてもわかりやすいロマンチズムの原点です。
さらにその愛を計測観測可能な〝次元〟の一つとして、物理学の真理にねじ込むというのは、強引で乱暴ながらもとてつもなく熱く痛快で刺激的な“ロマン”なのではないでしょうか。
物理学的にも観測可能である〝愛〟を持ち、〝愛〟によって宇宙に、時空に干渉する。干渉可能な存在は宇宙にただ一つだけ、人類だけ。人類はついに自らの特異的な手段によって宇宙へ干渉する。すなわち愛によって。
この、壮大さによるのではなく、極小によって壮大さへ挑む映画体験。とてもではありませんが格別でないと言えば嘘でしょう。


それにしても、〝愛〟はしかし反響する他者があってのものです。
人類が宇宙へ干渉できるほど広がりのある存在であると再定義されたのちには、人類同士の相互反響として〝愛〟は千年の孤独を癒していきます。
しかしながらそれ以前から、人類はもはや隣人を得る地位から追いやられ、母なる自然からという意味ではついに「ひとりだち」したにもかかわらず、隣人を求める性自体を忘れ捨てることはできないのだとばかりに本作はなにげなく新たな〝隣人〟を配置しています。僕もニヤリとしました。動物を隣人とできなくなった本作の人類は、代わりにあの〝ロボット(人工知能)〟たちにその役目を求めた、とは見られないでしょうか。

不思議なもので、人類は隣人と定め得る存在に対して、自分たちの同一の社会での共存を望みつつ、自分たちと全くは同一でない倫理の該当をとても自然に行います。人に首輪をつけるのはご法度ですが、イヌにはつける。イヌと一緒に食事をし、イヌと一緒の布団で寝たとしても、人類が人類に対して実行する倫理と全く同じものは適用しません。去勢手術にイヌ自身の同意は必要ないのです。
そのように扱える存在こそを隣人として愛する。それこそが人類の習性の本当のところでしょう。

本作での新たな隣人であるロボットに対しても、「彼(ロボット)はもう兄弟同然の親友だが、ロボットだから任務のためにブラックホールへ放り込んでも問題ない」と、やはり対人類の倫理とはいくらかズレた扱いをしています。
しかしながらこれは、逆説的にもロボットを隣人として見ていることの証拠と言えなくもありません。もちろん順接的には、あんなに気さくでユーモア70%の個性的なAIが人類の友人になれないわけがない(笑)。
終盤で〝愛〟の次元を支持しながら特異点を抜けた先のあの“空間”に、主人公個人にとっても人類にとっても最後の隣人たるロボット・TARSと共に辿り着いたことは、何より“孤独”を嫌う人類の習性を象徴しているように、思えてならなかったりしています。


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いつまでも記憶に残りそうな素晴らしい映画でした。掛け値なしにもう一度観たいですね。レンタルが始まったらDVDでも。
その頃にはきっと、幻覚でない実物の隣人を膝に乗せて。


インターステラー (竹書房文庫)

インターステラー (竹書房文庫)

原作ではなく小説版。SF的なディティールが気になる人は読んでおくと、かなり補完になるのでいいらしいです。

*1:ネコ好き過激派の方々は落ち着いていただきたい。ネコの魅力の大方は、人間の仕事を代行し機能的に人間を助けることにはないはず。

*2:厳密には、惑星そのものの重力は地球の1.3倍程度。にもかかわらずこんなにも時間の流れが遅くなっていたのには、近隣にある巨大ブラックホール“ガルガンチュア”の影響らしい(小説版より)のですが、劇中には説明がないのでやや面食らいます。