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映画とお人形ばかりで恐縮です

追い詰められた彼らが何か信仰を得ることを祈る(劇場映画録『紙の月』)

※タイトルに映画録とありますが、映画の話はそっちのけです。メインはあくまで僕個人の徒然ノート。映画と関連性のある内容ではあります。ネタバレはありません。

 

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上ばかり見て生きていくことに決めていますが、身の回りはみんな下ばかり見ている、というのはまあ珍しくもない話かもしれませんが、最近とみにそう思わされることばかり続いています。こんなとき自分という人間は基本的に❝酷❞な生き物で、なんでまたそう自分を腐らせる方向に皆物事を考えるのだろうかと――「考えてしまう」と言うと嘘になりますね――彼らがそれをやめられないことがわかっていながら、やめようぜと突っつきたくなるのです。

 

「今のあなたにとって、❝幸せ❞と思えることは何ですか?」

 

たぶんその人たちはきっと、長く自問してもその答えを見つけられない時・立場・環境にいるのでしょう。何をしても楽しくない。けれど、じゃあ何をすれば楽しいのかがわからない。疲れているから?ストレスがたまっているから?けれど、じゃあ元気なときにすれば楽しいことは何ですかと尋ねても、心から断言できる答えが心の中に見つからない。楽しいって何だっけ?思い出せない。

情熱を投じたものと思っていたものが過去になり、

時間を捧げたものと思っていたものが無為になり、

そもそもそんなものが存在していたのかどうかすら疑わしい、何も残っていない、残せるものが最初から無い。

かつての❝幸せ❞はうたかたのように消えてしまった。

 

何が楽しいかわからない人々に共通するのは、「楽しい」という感情が自然発生的なものでないということを根本的には理解できておらず、「楽しい」という感情の正体がそれを誘発してくれる事物そのものだと思い込んでいることです(※逆の命題についての真偽は必ずしも共通しない)。僕も半分そんな状態でないと豪語する自信はありませんから少なからずピンときてしまいます。その上で、しかし腐らない方法も充分に模索してきたことの方は豪語できるのです。

❝幸せ❞は所詮感情にすぎない。ゆえに内在的で内発的なものである。

誘引するものを外部存在に頼むのは間違ったことではありませんが、自分の心の中の回路、「幸せの方程式」なんて呼びたくなるようなものを、手軽に用意できる外部存在に適した式に、自分で切り替えてしまえば、❝幸せ❞を味わうくらいわけはありません。

 

『紙の月』ほどの大掛かりな「切り替え」でなくとも。ちょっとしたものなら。

❝いつわりの幸せ❞でもいいじゃない。心から生まれ出たのであれば、それは偽りでないのですから。

 

…といっても、この「切り替え」には少しばかりのコツと大きな気力が必要です*1。あらかじめ訓練していないと、普通はかなり難しいんじゃないかと思います。

少なくとも、すでにふてくされてしまった人間を今から救うには、僕では経験値が足りません。僕から彼らに言えることは、余裕があるうちから「おいしいものをおいしいと言えるようになっておく」みたいな意識的な努力をしておけばよかったのにね、という、またも❝酷❞な宣告だけです。

 

もとい、幾度となくこれが宣告でなく助言として届けばいいのにと祈ったことはあります。

しかし、言葉だけでは遠すぎるし遅すぎたと思うことしきり。彼らは僕や誰かの励ましに、「ご高説」として耳を貸すことはあっても、結局自分にはどうせ無理だからと言い、あるいはごく自然な怠惰に任せて、今までどおりずるずると腐っていく。なぜならその方がラクだから。

 

もしかしたら期待されていたんじゃないかと思うことがあるんです。僕が社会に出たのち、かつて利用していたツイッターやこのブログなんかを通じて、仕事の愚痴や上司への憤りを吐き出す様が見られるだろうというふうに。彼らと同じ❝毒❞を僕が共有し始める日を。

 

黙っていたのが悪かったといえばそう。

残念ながら、ネットを介して見せられる「社会人さま」の愚痴や鬱屈は、僕が学生時代に心の底から敵視していたものです。

社会を知らない学生であるがゆえに、社会人がため息をついていたら自粛しなくてはいけない。

社会を知らない学生であるがゆえに、社会人を慰めて励ますなんて「知ったふうな口」もききづらい。

気にせず口を出してもよかったでしょう。事実最初のうちはそうしていた。しかし、こちらの気力にも限界があります。疲れた社会人の相手に疲れ、もらい鬱にならないよう気を張ることに疲れてしまった。

 

もうそんな過去のことについて、今さらとやかく言いたいわけではありません。

ただ、黙って誓いを立てていたのでした。

僕は絶対、学生の目の届くところで仕事の疲れは吐き出さない。ネット上でなんてもってのほか。

ところ構わず吐き出してよいのは、あれは何も知らず喜怒哀楽に輝き、自分に内在する❝幸せ❞を初めとした多くの感情を学ぶべき学生時代にある人間たちの特権であるから、と。

 

人が誰かを愛し、誰かを好意的な意味で人間として扱うときには見返りを求める。見返りとはつまり、その誰かが❝幸せ❞になることをも含む。

❝幸せ❞が何かもわからない人間に対してその人が❝幸せ❞になることを望むことほどありふれていて、残酷な❝悪❞がこの世にあるだろうかとしばしば思います。ハンナ・アーレントの主張したこととは少し違いますが、これもまた「悪の凡庸さ」の一つではないかと考えつつ、僕はまだ悪を重ねましょう。真の悪を。

こう問うのです。

 

己の御旗に「悪」を掲げるなら、当然他人に幸福を強いるほどの凡庸な悪は常に為し続けているのでしょうね?自尊心のためでなく、心から他人の幸せを願って。

 

でなければ、あなたは「悪」ですらない。欺瞞でできた何か。小悪党などという言葉は都合のいい人工の幻想であり、存在しない避難壕だと知り、そのまま雨ざらしの路上で永遠に空爆を待てないなら、せめて音のない森に消えてください。

僕は一人でも避難します。脚をきたえてあったので。

 

 


『紙の月』予告篇 - YouTube 

作品情報『紙の月』

2014年/日本(松竹)/126分/PG12
監督:吉田大八
原作:角田光代
脚本:早船歌江子
製作総指揮:大角正
キャスト:宮沢りえ池松壮亮大島優子田辺誠一近藤芳正石橋蓮司小林聡平祐奈佐々木勝彦、天光眞弓、中原ひとみ

(あらすじ)バブル崩壊直後の1994年。夫と2人で暮らす主婦・梅澤梨花は、銀行の契約社員として外回りの仕事に従事し、その丁寧な仕事ぶりで周囲にも評価されていた。一見すると何不自由ない生活を送っているように見えた梨花だが、自分への関心が薄い夫との関係にむなしさを感じていた。そんなある日、年下の大学生・光太と出会った梨花は、光太と過ごすうちに顧客の預金に手をつけてしまう。最初は1万円を借りただけのつもりだったが、次第にその行為はエスカレートしていき……。(映画.com)

 

紙の月

紙の月

 

 

*1:ここではいわゆる自己暗示を「切り替え」と表現していますが、回路の「組み換え」は通常現実的には不可能に近いことが多い。なにしろそれは、正義感の強い人に「人を傷つけるのは最高の喜び」という暗示をかけるようなものだから。