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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2014,1,12 PM5 【映画録20『ヘンゼル&グレーテル』『ジンジャーの朝 -さよなら、わたしの愛した世界-』『愛、アムール』】

集団討論の練習で死んできました。
緊張しすぎたせいかもう頭真っ白で、地が漏れるのも抑えきれない始末。
わりかし本気で大ダメージですね。しばらくは頭の中この件で一杯でしょう。
正直うわもう二度としたくねえという気分ですが、痛みを伴わない経験には云々。

要は慣れと言いますが、これは何よりまず慣れのようです。

本日のお品書き

  • ヘンゼル&グレーテル
  • ジンジャーの朝 さよなら、わたしの愛した世界
  • 愛、アムール

「話が長い」

って言われちゃったんです。やっぱり。ええ、やっぱり。
心当たりしかありません(;x;)

だから、とストレートに思ったわけではありませんが、
前回のようにまた“5段落縛り”でやっていこうと思います。ナニゴトも地道に。

case.728の映画録は、ネタバレは「もしもあったらごめんなさい」でお送りします。

1月6日『ヘンゼル&グレーテル』


  • わあい、バカ映画。七津はバカ映画もだいすき♪
  • 友人からのそういうタレこみでレンタルリストに入れてあったのですが、例によって弟が借りてきてくれたのを幸いに便乗。いやー、あらすじや設定から出来る想像を寸分たがわず射抜いてくれる、素晴らしいおバカ映画、というかおバカ脚本。そう、何が怖ろしいって、出来が無駄にいいところ!それがすべてでした(笑)
  • 魔女狩りの時代にお菓子の家から生き延びたヘンゼルとグレーテルは成長して魔女ハンターに。魔女が倒せる決め手はその道のプロのごとく豊富な知識と、魔法が効かない特異体質。魔女に銃弾も効果が薄いので、自然戦いは肉体と肉体のぶつかり合いに――と、一見理にかなっているようでよく見るとツッコミどころ満載なこの設定。見返すだにノスタルジックなワクワクがこんこんと湧いてきますが、本作はその期待をまったく裏切らずにとことんやってくださっている。一切迷いがないというステキさ。しかもダレない!
  • にもかかわらず、随所で見えるクールな面も持ち合わせているのが特徴的。具体的には、誰であろうと死ぬときはさっくり死にます。脳ミソ筋肉な内容として紹介されると暑苦しい展開ばかりなのではとも不安になりますが、全体的に空気はすごくドライです。ドライなのに設定は脳筋です。あざといドラマティックも君子然とした人間性も排された爽快感と妙に不謹慎なおかしみ。敵が可哀想になるくらい鬼みたいな主人公たち。そこにある痛快さが、伝わる人には伝わってくれると嬉しい。
  • 残念ながら本作はビデオスルーだったんですよね。残酷性はそれほどではないのですが、「魔女」の設定において外見差別意識なんていうかなり時代錯誤的なものが反映されてると言われても仕方ない要素があからさまに目立ってましたし(魔女は「魔術を使うから風貌が醜悪」と言っといて、しかも大半がフリークス)、その点はいかに鶏と卵の問題をはっきりとさせて強調しても苦しいものがありました。本当にそれが原因だったかどうかはわかりませんけど、そう見ると仕方ないような気もします。

1月9日『ジンジャーの朝 さよなら、わたしが愛した世界』


  • 青春モノというと熱血だったり爽やかだったりとにかくキラキラしたものというイメージがありますから、同じ年齢層を描いたものでも対照的な雰囲気のものをぼくは“思春期モノ”と呼んでいます(以前は中二病モノと呼んでいた気もしますが、現代では誤解を招きますね)。とある女の子二人を主軸にしたそういうのというだけでも自分には魅力的でしたし、原爆の日に同時に生まれたというかつてのジュブナイルノベルのような設定にも惹かれて視聴。
  • 結果、取り立てて言うほどではありませんでしたが、なかなかよかったです。女性の監督さんだからでしょうか。女の子ってこんなものよという下地がしっかりしててヒロインのジンジャーにとても人間味があります。男性が抱くような母親への幻想がまさに母親というキャラクターに全く反映されてないのも印象的でしたね。
  • その母親の件も含めて概ね面白かったのは、思春期モノの映画にありがちな「少年少女だけが描かれる」「大人に当たるキャラクターたちの記号化(デフォルメ)」という現象が起こっていなかったことです。きちんと奥行きのある生きたキャラクターとして、主人公の周りに大人たちが存在している。どちらがいいというわけではありませんが、『サム・サッカー』あたりと比べるとなんとなくわかる気がします。こういう地に足のついた群像劇的な方向性を打ち出せるのは、感覚的に物事を捉えておける女性監督特有の現象でもある気がしますね。
  • またそういう目で見直すと面白く思えてくるのが、ジンジャーの父親です。本作においてヒロインに次ぎ、大人たちの中では一番色濃く描かれているキャラクターなのですが、デフォルメされているわけでないにもかかわらず非常に魅力的な“クズ”もしくは“下衆”として異様に完成度が高かったです。常に自分が一番可哀想でなくては我慢がならず、他人への同情を口先三寸で排除したくてしょうがない。この頭でっかちなキャラクターは、描く側も人の心理を頭でっかちに理解できていなくては、濃く深く描けるはずのないものです。女性らしくないという言い方はあまりよくないかもしれませんが、しかし逆に感覚的に描き出したとすれば、なにげに凄まじい感性だとも思ったのです。
  • 脚本そのものに気をてらったところはありませんし、強烈なメッセージ性などもなくテーマももはや見慣れてしまったものでしたが、映画としてはなかなか興味深く観させてもらいました。いや、描写は抑え目ながら内容はわりときつかったりするシーンも多くて、ひそかに見応えのある映画でもあります。

1月10日『愛、アムール


  • 2013年のパルムドール&第85回アカデミー賞外国映画部門。『白いリボン』のハケネ監督。2作連続パルムドールの手腕やいかに、とワクワクしながら視聴に臨み、ああ、うん……もうお前がパルムドールでいいよ、と立場を気にかける余裕もなくして自暴自棄にならざるを得ない、そんな観賞後の虚脱感でした。2013年のパルムはハケネに完全に持っていかれた。
  • 感想を短くまとめられるだろうかと一番不安でしたが、実のところ、言葉を重ねれば重ねるほど虚しく自分がくたくたになっていく、それが本作です。観賞者の肯定も否定も、外部からのあらゆる概念を寄せ付けない、一部の隙もなく閉塞された作品世界。そんなものにハケネのやろうは「愛」とタイトルをつけやがった。おお、ぼくなんか腹が立ってきたぞ?
  • こうして書いているうちに口が悪くなるほどのやるせなさを覚えます。「こんなものは愛じゃない。かわいそうな老夫婦の、お互いのエゴだ」と知識や言葉を尽くして本作や本作の登場人物たちを否定するのはとても簡単です。しかし、それに何の意味があるでしょうか?「全く人格的でないし、教養的でない」どう否定してみたところで、それはぼくらは「こうあってほしい」と望む形を押しつけんとするだけのものです。いさや、その押しつけをこそ本作は完璧な閉鎖性でもって弾き返す。あるいは無視する。ぼくらの望みに映画はまったく聞く耳を持たないという、思えば当たり前の事実をしかし本作はその背中で突きつけてくるのです。そりゃ虚しいし腹が立ちますとも。
  • 肯定もまた同じですが、むしろ本作は「これこそが真実の愛だ」と口を憚らない称賛者の股間を後ろから蹴り上げに来ます。「あの二人の世界でのみ成立する愛」と閉塞性を認めつつ肯定して観てさえも、果たして本当にあの世界の中ですら「愛」なのか?と首を傾げてしまいます。彼らは、もしくはハケネ監督は、とんでもないものに「愛」と名前をつけて、我々はその名前に踊らされているだけではないのか?その疑問から否定に走ったところで、結果は前の段落の通り。ぼくらはあくまで作品の外でのた打ち回るしかありません。
  • 本作に関しては妙に断言してしまいますが、正直投げやりになっているだけなので笑ってやってください(笑)。完璧に閉じた世界の中の“自由”には手がつけられない。そんな自由の上でリアリティを追求されては、突きつけられるぼくらに逃げ道なんてあるはずがないのです。公式サイトの海外評&コメントのうちで、谷川俊太郎さんのが好きなのでここにも載せておきます。「わたしたちは〈映画〉を観たのではない。〈事実〉を目の当たりにしたのだ。涙を流す余裕はない」

実は『愛、アムール』を観たのが、集団討論の練習があった日の夜。

間の悪さもここに極まれりって感じでしたね(^^;)
2つの消化不全があいまってまぶたの裏に大きな川が見えました。

さすがにもう本格的に忙しくなってきたので、映画もあまり観られなくなっていくとは思いますが、そろそろ心温まるようなやつも観てみたいですね。『モンスターズ・ユニバーシティ』が新作で入ってたはずなので、そのあたりにしてみましょうか。