読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2014,1,30 PM10 【覚書・古代的ファンタジーの“人類と亜人・他種族”に関する個人的嗜好の話】

風邪っぽくて調子が悪い日に限って雨が降ります。そして行きのバスには目の前で行かれました。次のバスは一時間後……だと……!?

帰りも似たような感じでそのうちバスに追いつかれるだろうと踏んで歩き出しましたが最初の停留所で目にした目当ての便の発車時刻には、もう降りる停留所の付近まで辿り着いてしまいました。予備校の終了時刻は一律なのでこれは土電に乗って鏡川からは歩いた方が早い。

もちろん足パンパンです。
思い返すだに身体的に無茶だったと言わざるを得ないのですが、頭がよく回らなくてとりあえず歩き続けてしまった次第。脳筋かおまえは。


今日は日記というか個人的思索の覚書。さしあたっては徒然ということにしておきます。


ほとんど実際には買わない・遊ばないながらの横好きで、ふた月に一回くらい思い出したようにYouTubeで新作ゲームのトレーラーを眺めることがあります。映像と音楽によるイメージ操作に身を任せながらシナリオや設定の雰囲気を掴もうとすると自然にワクワクしてきて購買欲を刺激されます。ゲームは買う前が一番楽しいっていう例のアレですね。

昨夜からすでに今日と同じ体調不良で、体もだるかったので漫然と久々にそういうことをしていました。

そんな中で、特定ゲームのネガキャンがしたいわけではないのでタイトルは伏せることにしますが、とある近日発売(なんとぼくの誕生日)の国産ゲームのトレーラーを見たときに、なんとなく嬉しくない感じがして驚いたという話。

ゲームの内容自体は古典的なRPG向けのハイファンタジー。そこそこダークな雰囲気もあってぼくの嗜好にもマッチしているような気もしました。
けれどいまいちピンとこない。どころかなんとなくイライラする。
おそらく半分は体調のせいだったと思いますが、他に思い当たった原因がちょっと興味深かったので書き出しておきます。

具体的にそのファンタジーの世界観を述べると、人類と亜人とその他の種族がいて、人類は人類以外の種族の脅威に対抗しながら暮らしているというもの。細かいところは割愛しましょう。自分の嫌悪感の原因と関わりがありそうなところだけかいつまんでみるとこうなります。

もちろん主人公たちは全員人類。
つまり人類VS他種族。
どうやらここですでにぼくはつまづいたようです。この構図だけ見てもやっとしました。

人類が正義で他種族が悪。
か弱い人類は力を合わせて脅威に立ち向かっていく。

(´・x・`)

アメリカ映画とかだとよく見ますよね。代表的には“人類VS宇宙人”というかたちで。
でもあれだと、違うんです。あれは素直にワクワクできる。
なぜ?何が違うんだろうって考えてみました。
すると、同じ「人類」でも、中身が違うことに気が付きます。

アメリカ映画で宇宙人と戦う「人類」は、現代(あるいはそれ以上)の文明の中に住まう人類。ぼくたち現実の人類と同じかそれ以上の技術力すなわち実力を持っていて、それを武器に宇宙人と戦います。もしくはあえなく蹂躙されます。

対して剣と魔法のファンタジー世界の「人類」は、概ね現代より弱体化した文明の中に住まう人々。疫学とかの難しい話をすっ飛ばしたとしても弱々しく、己のたくましさや仲間とのきずなやどこの街にも必ずいる鍛冶屋のおっさんとの商取引を主な武器にモンスターと戦います。さもなくばあえなく蹂躙です。

なにが「あえなく」だというのか。きっとここですね。

かつて文明を持っていたけれど厄災やら脅威の出現やらで一旦滅ぼされかけた、とかなら何とも思わないのです。それはぼくらと同等以上の文明が一度負けたということです。それならいい。

しかし、最初から文明が“ぼくたち未満”の場合、「脅威」の実力もアメリカ映画の宇宙人未満かもしれない、ということですよね?
そんなものをまともに相手取るために、弱体化したかわいそうな人類が用意される――ファンタジーの設定というものは所詮人の手で作り出されるものだ、という職業病的な意識があることも否めませんが、いつの間にか古典的ファンタジーの構図をそういうふうに捉えてしまうようになっていたようです。

それは違うんじゃないか、と言いたくなった方もいるかもしれません。ただこれはぼくの感覚を説明しようとしてみただけのものです。そして肝心なのはこの先です。

古典的ファンタジーの構図を“そういうふう”に捉えてしまうようになった上で、その解釈によって強調される「人類がか弱い」という前提に、ぼくは苛立ちを覚えたようなのです。

自ら無粋な話を持ち出せば、巨根願望みたいなものが念頭にあるんだろうとは思います。
けれどここでぼくが注視している部分については、「人類が」よりも「人類だけが」と言い換えた方が分かりやすいでしょう。

「人類だけがか弱い」すなわち「亜人・他種族はか弱くない」

巨根願望より鼻につくフェミニズムのかほりもしてきました(笑)
でもとにかく人類だけが不幸自慢・弱者宣言を、一つのブレイクもなく許されているような構図が気持ち悪くてしょうがないのはぼくの中の事実です。ヘッドが出ます(非頭)

そもそも人類なんて括りは多数派の代名詞というイメージが強いですし。
そのせいで多数派が少数派を虐げんとする構図も想起してしまうのでしょうか。RPGのモンスターが少数派なわけはありませんが(むしろ無数…)、人類以外=多数派以外という直結したイメージの方が強い印象を持っているようにも思えます。

モナーだった覚えはありませんが、昔から人外萌えというか人外びいきの傾向が強かったのも確かですし。
人類以外の生き物が人類と同じような喜怒哀楽を持つ可能性にはそこはかとない魅力を覚えます。
過激な動物愛護や動物神話は、あまりに卑屈ぶって人類以外を祀り上げるのでそれはそれで苦手ですが……。

まあそれにしても、ハイファンタジーで亜人が味方にいないだけでこうも鬱々とさせられるのは今までになかったことのように思います。歳をとって嗜好が変わったとかもあるんでしょうか。と思う一方で、よく考えてみれば今回問題となったゲーム以外に「人類が絶対弱者」で「他種族が絶対悪かつ脅威」という構図の古代的ハイファンタジーがマンガでもラノベでも面白いものでは思い当たらないような気がしています。なんやかんやでFFなどはパーティの亜人・他種族率が高かったりするんですよね。テリー以外のドラクエは守備範囲外なので知りませんがモンスターが仲間になったりするんでしょうか。

覚書のつもりが長くなりました。
今日の徒然はとても個人的な嗜好の話だと思っていますが、ジャンル内を一般的に眺めるとどのくらい通用する考え方なんでしょう。というこの問いが最後に自分の宿題となります。記事はここまで。

追記(2014,2,7)

反例ぐらいは自分で探す、という信条の下――
てめえ『進撃の巨人』は最初から(つまり人間側に☓☓が混ざっているとわかる前から)楽しんで観てたじゃねえか。あれはどういうことだったんでい?
と思い至ったわけですが、

うーん、まあ、わりと簡単に映像や雰囲気にも流されるタチなので、必ずしも上記のように反射的な嫌悪が発生するわけではないと言っちゃってもいいのですが……

一応なるだけ合理的に考えてみます。
考えられる理由は三つ。

・あの作品の「巨人」がこの記事の言うところの“他種族”に当たらない。
・人類側に高度な文明が作用しているように見える。
・人類の敗色が振り切れている(そういうラインや閾値がある)

改めて整理してみると、なんやかんやで三つ目が有力そうです。
あまり説明の必要もなさそうですが一応書きます。
上では「亜人・他種族はか弱くない」というある種の決めつけが面白くないと言っていたわけですが、
あれだけ「巨人」の存在が暴虐的で、人類の敗色が濃厚だと、
「か弱くない」=「見ればわかるww」
というふうに、ちょっと笑っちゃうくらい説得力があります(笑)

その上で交渉の余地がなさそうなのもミソですかね。
一つ目の理由の説明にもなるのですが、
この記事で言う“他種族”は、大雑把な言い方をすれば要は知的生命体です。
進撃の「巨人」は明らかにそうではない。ここを掘り下げていくと作品のネタバレにもつながりかねないので細かい言及は避けますが、あれはパッと見でもはや“敵”というより“災害”でしょう。暴走する重機とも同じ位置にあります。“話が通じない”と。

あとは、もっとネタバレにつながりかねないので慎重に書きますが、あの「壁」や「立体機動装置」の存在のおかげで、作品にSFの気があるように見えるということです。これが二つ目の理由に当たりますね。
記事中にも書いたとおり、高度な文明が人類の味方として積極的に作用している場合は、人類弱化という卑屈さが見て取れることはありません。さすがに文明凌駕されちゃったら仕方ないよね、という文法です。

で、ここでも結果的に「相手がか弱くないどころか充分強い」と言うための説得力が、人類が弱い立場であることを許す条件になっています。
ということはやはり、一つ目と三つ目の理由が一番強いということなのでしょう。

逆に言えば、敵とされる“他種族”があまり強そうに見えない場合こそ不満を覚えてしまう、という考え方もできそうです。『カウボーイ&エイリアン』とかも面白かったでし。いや、あれは別の意味でか…(^^;)

「鉄の剣が刺さるモンスターなんてモンスターじゃないわ!」

ううん、まずいぞ。何がまずいのか知らないがちょっとしっくりきてしまった……。