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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2014,2,7 PM12 【読書復活の日】

取り戻さなくては!

と頭の隅では思い思いながらもずるずると思い立たずにおりましたがようやく思い立つことにしました。
何をかといえば、読書の習慣です。

取り戻す、ということは、かつてはあった、今は失われている、ということ。
最近本読んでないな。そういえばあまり読まなくなった。
自分と似たような声をしばしば耳にします。

なぜ本を読まなくなったのか。

理由のはっきりわかる人は別段少なくはないでしょう。
インターネットで動画を見ている方が面白い。仕事が忙しい。面白くないものばかり読んで飽きてしまった。教養を得るには非効率的だと気がついた。
その理由で確かにしっくりくる人はそれでいいと思います。けれどぼくにはどれもしっくりこない。“ぼくは”どうして本を読まなくなったのか。



「どんな本読むの?」
「イヤー、それが読むの遅くて……」

文芸サークルにいた頃、新入部員と初対面の時、こういう会話がよくありました。

読むのが遅かったり読む時間が少なかったりして、読んだ本の冊数を恥ずかしくて口にできない――
サークルの性質上、それは持っていて当たり前の感情かもしれません。
けれど、彼らは暇があって他に何もすることがなければ、おそらく本を読む。少なくともその程度には読書が嫌いじゃなくて、どちらかと言えば好きと言える。

読書は嫌いじゃない。好き。
読書をしている間は他のことも忘れられるし、なんだか心地いい。


えらそうにこんな記事を書いていますが、ぼくだって本の虫と自称できるような読書家だったわけではありませんでした。どころか、一冊の本を半月近くかかって読み終えるのが当たり前のような輩です、ぼくは。当然一年に読める本なんて、多くても所詮三十冊や四十冊。そして実際は、二十冊にいくかいかないかが関の山といったところ。

そもそもからして読書に執着があるわけでもないから、そんな感じでした。読書はあくまで余暇の利用方法の一つ。
ただし、その中でも特に上位の“心地いいもの”としてあったのも確かです。それはシルヨロコビが云々かんぬんなんていう高尚な話じゃなくて、本当にただ文字を追うことに感覚的な心地よさがあったというだけのもの。もし時間の浪費だと指摘する人がいれば、ぼくはそこも読書のいいところさと笑って答えることができます。

そう、本当にただの暇つぶし。
ですから、仕事だろうが遊びだろうが、本が読めないほど忙しいというのはよっぽどのことです。唯一差し挟まってきそうなのが携帯ゲーム機やスマホでしょうが、ぼくの場合はそれもない。
本に幻滅するほど大きな期待を抱いていたわけでもありませんし、そもそも絶望を確かにするほどの量を人生で読み切れないというのは上のとおり。教養も関係ないし、効率に至っては絶望的。

ただ楽しかった。

なのに読まなくなった。

いつの間にかなんとなく本に手を伸ばすという行為をしなくなって、そして目に入っても、興味をそそられなくなっていました。

どうしてそうなったのだろうとはしばらく前から考えていましたが、ようやくその理由が見えてきました。

いろいろなことがちぐはぐだったのです。
まず読書の意義を考えるようになった。そして疲れてしまった。

もともと特に意義なんて必要とせずに、ただ楽しいから続けていたはずのものなのに、なんとなく周りの雰囲気から「読書はああでこうだからとても素晴らしいものだ」と具体的に説明できなければいけないと感じるようになってしまった。「なぜ読書をするのか」と聞かれたとき、効率や費用対効果の側面において自分の回答を肯定されなけば、ただの時間の浪費と言われてしまう。そして時間の浪費は、一も二もなく悪いものだと考えるようにもなっていった。

そんなの、ばかばかしくはないか?とまでまるでなじるようなことを言うつもりはありません。自分のしていることを何でも肯定的に見られたいという願望は、誰にだって自然とあるものです。
ただ、その点を見つめ直してみるのが無駄だとも思いません。

速読ができる人を羨ましく思ったことはあります。
本の虫と呼べる友人を誇らしく思ったこともあります。
自分は書く側を志す人間ですから、読む側の人よりも読まなくてはいけないという意見には強く共感しました。
本をもっとたくさん読まなくてはいけない、早く読まなくてはいけない、面白いものを書くために、読む本も面白くなくてはいけない。
趣味の欄に「読書」と書くには、その資格がいる――

言葉にしてしまえば、何のことはありません。すべて幼稚なコンプレックス。けれど、ただ文字を追うことが心地よかった“ぼくの読書”を忘れてしまう程度には切実なコンプレックス。ただ好きであることさえ自分で否定してしまうほどの、根の深いコンプレックス。

「イヤー、読むの遅くて……」
「でも本すきなんだよね?どんなのがすき?」


今、「読書量を増やす」あるいは「読書習慣を始める」といったことのための啓発をよく見かけます。今まで読書に関心がなかった層を取り込みたい。読書をする人間を増やしたい。業界が心を砕いている側面もありますし、仲間を増やしたいと思う人の気持ちも当然でしょう。そこで振るわれているのは、とても具体的で魅力的で伝わりやすい“読書の素晴らしさ”。

しかしそれらは、今まで普通に読書をしていた人にとってまで必要なものでしょうか。
他人の意見を自分の意見とすることで、自己肯定を促す。それはそれで悪いことではないでしょうが、いつしかその意見を支持する側として、その意見を保証できる自分にならなくてはいけない、という義務感に駆られてしまう人だっているかもしれない。そのとき読書は目的でなく、有意義で効率的でなくてはならない手段に変わっています。
それでもいい人はいいでしょう。でもぼくはどうやら、気づかないうちにそうなって、あげくに疲れてしまっていた。

同じような心当たりがあって、読書を全然しなくなってしまった人は、一度思い出そうとしてみてください。ただ漫然とページをめくっていただけの時間を。内容を覚えているかどうかも何も気にせず、無心に文字に目を落としていたときの感覚を。もしかしたらそれで、結局読書なんてしなくてもいいんじゃないか、と吹っ切れる場合もあるかと思います。それも悪くありません。けれど、良くも悪くもないことなら、暇つぶしの一つにぐらい、してもいい。

読書は怖くない。そこにハードルなんてない。

正直、やっぱり読書への執着とかではなくて、いろいろいつの間にかコンプレックスやら強迫観念やらでぐちゃぐちゃになっていたところが気持ち悪いのでとにかく何とかしたい、という気持ちがあるだけなんです。モチベーションの具体化から解放されたいという理由だからこそ、その理由は「だってなんかやだから」。

うまくいくかはわかりませんが、幸い未読の本ならそばにたくさんあります。
今日の記事を自分の胸に刻み直しつつ、一番本を読んでいた中学生の頃の、あの図書室になんとなく座っていたときの感覚に、立ち返ってみようと思います。

10分に1枚ページをめくり、半月かかって一冊読み終えるぼくの一心不乱。早いも遅いもない、ゼロで無限大の体感速度。
ぼくの読書。
取り戻せるといいな。