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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2014,2,14 PM11 【映画録23『リセット』『イディオッツ』『コレクター』】

PicsArt edited, titled "a match flame"

a match flame

本日のお品書き

  • リセット
  • イディオッツ
  • コレクター


日付的にうちでも何かやらなくてはダメかな、と思いましたが、
正直完璧に忘れていたのであるべきカテゴリのために何も用意できておらず、
加工写真でお茶を濁します。

タイトルは「マッチの火」。

寒いですからね。この売れ残りのマッチを擦ってあったまりましょうね。この売れ残りをね、こう、シュッと、こう、ね。シュッと。こう、シュッと。

※case.728の映画録は、5段落でまとめる観賞済みの方向けの参考記事を目指しています(No.18から現在)。なのでネタバレにつきましてはあることもないこともご容赦ください。

2月1日『リセット』


  • 久しぶりに見えてる地雷。悪い意味でです。題材と予告編で飛行機が墜ちてくるシーンの魅力に吸い寄せられて微妙だ微妙だと言われている声も聞かずにままよと飛び込み……うーん、微妙、かな?でした。ネガティブなニュアンスで微妙だの普通だのと言ってしまえるほどしょっぱかったわけでもありません。派手な期待をせずにのんびりじっくり観ているとわりと細かな点で楽しめたりもします。
  • この脚本で雰囲気が良くてもどうなのと思うかもしれませんが、実際不気味な雰囲気に関する演出はなかなかに見応えがありました。素直に映像を追っているとしっかり引き込まれます。緊張の煽り方もそれなりに手堅い。脚本がもっとサイコホラーの路線だったらバッチリだったかもしれません。
  • しかしながら人類消失とか一瞬でゴーストタウン化とかはオカルトというキーワードと組み合わせるとやはり一抹のロマンを覚えます。用意された朝食がテーブルにそのままとか最高ですよね。邦題が『リセット』なあたりにはよぉしふざけんな配給オモテヘ出ろと言いたいところですが(原題は“Vanishing on 7th Street”)、まあぼくはそういうネタにもそこまで飽き飽きしているわけじゃありません。欲を言えばそろそろブレイクスルーが出てきてくれてもいいんじゃないかとは思いますが。
  • キャラクターの浅さと「こんなにあからさまなリードはきっと誘ってるんだ」と思わせておいてマジだったという流れが多すぎる点だけはどうしても気になります。「この人の弱点はこれだ!」って何度も強調されれば、そりゃあ敵がその弱点を突いてくる展開も読めるってものですが、わざと読ませているように見えるからこそ、その展開でそのキャラクターが勝つ方に期待するわけです。だのに「ごめん、やっぱり◯◯には勝てなかったよ」ってそりゃないよ……。
  • そしてアメリカ映画特有の子どもに対する異様な寛容さ。百歩譲って子どもが判断力や精神を安定させる力で大人に劣るのが当然で自然なことだとしても、劇中の大人が子供を助けようとすればするほど不幸になる現象は本当になんとかなりませんかねえ。やるならせめてハリーぐらい自責の念に駆られてほしいところ。誠実な大人になる兆しを描いてくれなきゃ自己犠牲の精神を説いても浮かばれませんが、なんかもう様式美みたいになってるんでしょうか。こちらとしては「他の子じゃダメだったんですか?」とまで口走りそうになります。

2月2日『イディオッツ』


(さすがに突っ込み過ぎたので後日編集して段落増やしています。2/15)

  • トリアー監督は『奇跡の海』(ああ、これも観なきゃ…)を撮ってすぐに本作の製作に取りかかったと聞きます。その前作とそしてこのまたすぐ後の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』と合わせて「黄金の心三部作」とも呼ばれる本作は、ラース自らが提唱した「ドグマ95」に則って製作されたもので今のところ唯一のラース作品。そして、ラースの立ち上げた映画制作会社ツェントローパの記念すべき最初のハードコアでもあるという、ラース作品の中でもやたら特殊な(映画賞受賞などとは別の)肩書の多い作品です。
  • ドグマのことは正直その神髄みたいなところまでよく理解できてはいませんが、表面的なことだけ見ればダルデンヌ兄弟の映画みたいなのが自然とできあがる“縛り”みたいなものでしょうか。ちなみに提唱者であるラース自身は今のところ本作以外厳密にこの“縛り”を守り通した作品を製作していません(本作もいくつかこっそりルール違反がありますが、ルールは破るためにあるっていうのもかなりラースらしいですからね)。かといって、どうやら見本のような作品を作ろうとしたわけでもさらさらないらしく、観客へはもちろん、誰よりも出演している俳優方に対して情け容赦のない多大な負荷をもたらしてくれる、ある意味平常運転のラース・フォン・トリアー。「黄金の三部作」としてくくられている他二作に比べて見るからに小規模低予算の映画でもあるのですがなんのその。ハードコア要素があるためでもありません。むしろいつもより厄介なことに、恐怖とか驚きとかを利用せずにメンタルの急所へダイレクトアタックをしかけてくる内容となっています。
  • カナ読みが邦題にもされている原題“The Idiots”は直訳で「白痴」ですが、作中字幕では“idiot”を「愚者」と訳して可算名詞扱いです。つまりタイトルは複数形、と解釈することもできます。本作で“演じられる”のもまたイディオット。しかし“イディオットでない愚者”たちによる物語。
  • 登場人物たちは、高次の精神性をイディオット=ダウン症などの発達障害者に見出したと(一人が)主張する社会人たちの無差別な集まりで、イディオットを模倣しイディオットになりすましながらひとつ屋根の下でほのぼのと日常を送ります。持ち回りで誰か一人「世話役」(介護士的な立場)を決めて通学バスっぽく塗ったバンに乗り込み、介護施設の住人を装ってレストランに食事に行ったり工場見学に行ったり。それによって知的障害者の苦しみを理解しようだとか、逆に知らない人々が自分たちを扱いかねて困っている様子をあざ笑おうといった、説明しやすい明確な趣旨があったわけではないようなのですが、劇中何度か挿入される「後日インタビュー」によれば、「あの活動は遊びではなかった。だがゲームだった」とのこと。人が集まった経緯は語られず、読み取れる関係性も少なく、共通項としてあるのは彼らが「疲れた人々」であるということ。話だけ聞くと鬱っぽいドロップアウターたちのなかなかにキマッちゃってる集団に思えるのですが――しかし一番キマッちゃってるのは監督ですね(失敬)。なにしろここまでセンチメンタルでふわふわとした設定を用意しておいて、その演技のほとんどをアドリブで行うという鬼のような要求を役者にしているのですから。
  • そもそも発達障害の役というものからして役者に大変なストレスを要求するものでしょう。ぼくの知る役者ではダスティンおよびフィリップのふたりのホフマンとショーン・ペンを除けば、完璧にその役をこなしたことのある人はいないだろうと思っています。単に再現が難しいというだけでなく、否応なく役者は倫理を自問することになるという側面があります。それは、目を逸らせば役を作り込めなくなるし、入れ込み過ぎれば歪な補正のかかった役作りをしてしまいかねないという、自分の中の倫理との距離感が最重要となる問題です。感覚的に処理しなくてはいけないので、俳優業に真摯な役者であればあるほど多大なストレスとなるでしょう。実際距離感を測りかねずに済むなんてことはないのではないでしょうか。しかし本作が俳優らに要求している“役”は、その「測りかねることによるストレス」というものを抱えている人間の役なのです。
  • なかなかややこしいですが、要は“ふたつ分プラスアルファ”です。まず、劇中の人物がすることとして、「知的障害者の役」をしなくてはなりません。この時点で「知的障害者の役を演じるストレス」を抱えることになります。次に、劇中の人物として、「知的障害者を演じる人の役」を同時にすることになります。すると当然「知的障害者を演じる人の役を演じるストレス」を抱えることになるのですが、その役は「知的障害者の役を演じるストレスを抱えている人」でもあります。なのでその役をこなすために「知的障害者の役を演じるストレス」と向き合わなければいけないのですが、向き合うもなにもそれは自分の中にすでにあるものなので、いわゆる“反芻”をする羽目になります。プラスアルファと言いましたがもしかしたら相乗かもしれません。しかも厄介なことに、ストレスを軽減するには「倫理との距離感」をある程度掴めればいいのですが、掴んでしまうと「知的障害者の役を演じるストレスを抱えている人」の役がしづらくなるかもしれないので、ある程度自分の中で強制的にもやもやさせておかないといけなくなるのです。少し乱暴な言い換えをすれば「わざと車酔いが続くようにしながら50キロほどドライブしてください」と言われているようなものです。乗り物酔いをする人なら冗談抜きで死ぬほどつらいものだとわかるかと思います。ぼくの考えすぎだとしても「知的障害者の役を演じるストレス」にプラスアルファで抱えることになるのは間違いないでしょう。少なくともトリアー監督は、そのような現場へ本物のダウン症患者を連れてきて役者として撮影に参加させるというマジで悪魔みたいな真似をしているので、役者たちのストレスについて確信がなかったなんてことがあるわけがありません。極めつけによすがとなり得る細かい台本すらなく演技はアドリブですからね。役者たちは「させられている」という言い訳すら許してもらえず、自発的な演技によって役者の業みたいなものがメランコリアしてくるわけです。
  • 本作は(も)実験色が強すぎて、こうして長々と考察せずにはいられません。おかげで6段落目(2/15日改稿)7段落目です。どうしてこれが死人も出さずに綺麗にまとまっているのか。編集力と言われればそれまでですが、気分としては奇跡に近いようにさえ思います。オーディオコメンタリーでラース監督は本作を「ちょっと不思議な作品」と評していますが、ある意味彼のどの作品と比べても「ちょっと不思議」どころでなく異質です。「黄金の心三部作」としての側面や、その枢軸と思われるヒロインのことについても感想を書きたかったですが、それもまた余白では足りないほど「ちょっと不思議」です。短い言葉で語ろうとすると変に哲学じみてしまいますので、また機会があれば。

2月8日『コレクター』


  • 邦題は忘れましょう(にっこり)。原題は“The Factory”。娼婦ばかり狙う連続誘拐殺人鬼は、自分の“工場”で何を作っているのでしょう? 予告編は観ていませんし、ネット評価もそこそこで悪くはないという程度でしたが、猟奇殺人が題材のサスペンスには定期的に観たくなる普遍的な何かがあるようです。たいてい今さらそのジャンルで面白い作品に出合う機会は得られないのですけどね。本作に関しては展開が安っぽくてもいいのでもうちょっとパンチが欲しかったところです。
  • 誤解されやすいみたいなのでまず断っておきますが、本作の事件はあくまで「誘拐事件」であって、犯人は「誘拐犯」です。殺されている可能性が限りなく100%に近くても死体が出てこないので「誘拐事件」、というだけではありません。自分の意に沿わない者をためらいなく殺す犯人はその意味では「殺人鬼」ですが、事件を起こす目的に対して「殺人」は手段に入ってきません。犯人の目的のために被害者は必ず“生け捕り”です。だから“工場”で何をしているかと考えたときに『MAY/メイ』のような真相を思い浮かべてしまった人はそっちを期待して観るとがっかりします。そういう思い込みなしで観るといい意味と取れる変化球だとも思うのですが、いかんせん先述のパンチ不足……ん?待てよ。普通に考えると殺人とはわけが違って“三人”でも充分やばいのでは?あれ?
  • 視点は主人公である刑事側と犯人側が交互に入れ替わる仕様。結果から見るとそのせいでやや詰め込み過ぎていたようにも思えるのですが、観ている間は展開のテンポがいいため特に気になりません。それに、結果から見ると必要な仕様だったこともわかります。ただし結末はあまり納得がいかず。後でああなるほどと思える伏線は多いので、サスペンス的な用意はできているのですが、どうしても「えー、そうくるのー?あーでもあれが伏線だったのかーなるほどなーそうかーでもなー」という、理詰めが整ってるから仕方なく納得するしかないみたいな不快感が伴います。用意といえば、あの結末に対する感情移入の用意がほとんどできていなかったのではないでしょうか。この手の問題とはあまりまともにぶつかったことがないので、どうすればよかったと言うべきなのか。犯人がもうちょっと理性的で、仕方なくや使命感でやってるように見せる、とかでしょうか。あるいはヒロインのキャラをギャップの強いものにとか。
  • お話の主軸でもある主人公(刑事)側の視点は普通に出来がいいですね。悪く言えばひねりがないのですが、刑事モノの“お約束”はほぼ常に押さえられているので安心して観られるクオリティだと言えます。主人公のキャラクターも、堅物中年刑事+娘のこととなると頭に血が上る、とコテコテもいいところ。ちょっと太めのジョン・キューザックがこわかっこかわいいです(笑)
  • しかし、あれだけ医療用の正規薬品登場させるのなら、あの目的のために使えそうな医療器具とかも登場させてさせてほしかったですね。ググるとネタバレになりますがシース管とかバルーンカテーテルとか(農学脳)。犯人の表面的なマッドさが今どきの水準としては低かったのもありますし。狂気を内に秘める美意識もわかりますが、端的に「見えない」ことと秘めることとは違うのではないかと。

トリアー監督といえば新作『ニンフォマニア』がトレーラー公開まで来ていたようです。

今日取り上げた『イディオッツ』以来14ぶりのハードコア。鉛筆を鉛筆削りに差し込む“振り”でない演技で行くそうです。タイトルからして直訳だと「色情狂」ですからね。肝心のトレーラーはYouTubeから直接削除されたとか(笑)

ラース・フォン・トリアー新作「ニンフォマニア」は5時間の大作に : 映画ニュース - 映画.com

2部作計5時間!ほんまかいな……。

シャルロット・ゲンズブールはこれで3連続トリアー作品出演ということになります。
アンチクライスト』にしろ『メランコリア』にしろ、やはり多角的な意味でグロかったり女性の痛いところを突いてたりまた即興かよ!だったりと、あいかわらず役者にかかる負荷は高い水準だと言えるのですが、にもかかわらずわりと同じ役者が出演することが多いのは、(そりゃあプロデュース的な意向もあるのでしょうが)トリアー監督の質の高すぎる要求が役者という仕事の神髄みたいなものを味わわせてくれるというような何かがあるのではないでしょうか。憶測ながらそう思わずにはいられない何かだって、素人ながらぼくみたいなやつが感じ取ったりもしているわけです。

あら?しかしWikipediaにはニコールも出ることになってるって書いてあります。リンク先の記事には名前がないですよね?Wikiのソースが古いみたいなので、取りやめになったとかでしょうか。