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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

2014,3,9 PM12 【映画録27『隣の家の少女』】


本日のお品書き

  • 隣の家の少女

TVアニメの話で恐縮ですが、昨今は線の細い美男子やかわいらしい美少年が登場人物として出てきただけで“腐向け”とレッテル貼りをする揶揄が横行しているみたいです。何かしらへのヘイトもここまで来るともはや病気としか……。

乙女ゲーをたしなむ女性は腐ってませんよ?と諭そうにも、おそらく「腐ってる」の意味もよく知らずに、とりあえず女性のアニメオタクをまとめて揶揄する意図で使っているのでしょう。問題は大衆的な語意はそのうち易きに流れ、流れた結果の方に人が踊らされる、そんな前例は腐るほどあるということです。そのうち登場する男性キャラが線の細いイケメンだから男友達とその作品の話がしづらいみたいな変な風潮にならないかとか、嫌な妄想をしてしまいます。

だからうか様は腐ってはないと言ってるでしょうにっ(要旨)

※case.728の映画録は、5段落でまとめる観賞済みの方向け参考記事を目指しています(No.18から現在)。なのでネタバレについてはあることもないこともご容赦ください。

2月22日『隣の家の少女』


  • ケッチャム先生初体験。と言っても先に興味を持って借りてきたのは友達の方で、2月に遊びに行って泊めてもらった折に、お互い一人で観るにはちょっと勇気がいりそうだということでさらにひとり加えた3人で挑みました。有名作品なのでさっさと結論からぶっちゃけますが、いやもう最悪でしたね。レイプシーンがあることで有名な作品でもありますが、レイプされたのはぼくらの心だよ!と叫びたくなるほどの強烈な毒気。友達は途中でトイレへ駆け込んで吐いてました。彼も後味悪い系の作品はそこそこ観ているはずなのですが…。
  • 何が最悪かって、全編に渡って悪女・ルース(ブランチ・ベイカー。本作によって自分の中で伝説級認定)によるヒロイン・メグ(ブライス・オーファース)への“いじめ”とその主導をしていく様子がひたすらねちねちとしかも間断なく描写され続けていくだけということです(「虐待」という言葉より集団的なイメージの強い「いじめ」の方が本作のイメージには合うので当記事では終始“いじめ”でいきます)。その大筋もさることながら、何よりルースによる少年少女たちへのマインドコントロールの様子があまりにリアリズムに富んでいて容赦がないことです。すべてが観客にとっても身近な悪意でありながら、それを抽出し凝縮し練り上げることで極上の悪意に変わることをルースは懇切丁寧に教えてくださいます。本当に容赦がありません。ルースのマインドコントロールは完璧すぎて、彼女の一挙手一投足が観ているこちらの心を抉るようになっていきます。ネタバレを恐れずに断っておきますが、本作に勝利の2文字はありません。ついでに幸運の2文字もありません。
  • さらに憎たらしいのが、本作において主人公・デヴィッド(ダニエル・マンシェ)の設置されている位置です。タイトルが「隣の家の」となっている通り、デヴィッドはルースの家の隣に住んでいる少年です(12歳くらいだったかな)。メグが隣に越してきたほぼ当日に彼女と友達になり、ルースの息子のいる少年グループと交流もあったため、自然とルース邸の一団に“いじめ”開始の初期から関わることとなります。語り部でもあるため、観客の目線と当初はほぼ一致する位置にもいる。しかし、それがそもそも本作の恐ろしい仕掛けの一つでして、この少年の目線と心情は徐々に観客の目線から乖離していってしまうのです。なぜなら彼もまたルースの影響下に置かれてしまうから。そのため徐々に観客は主人公が行動を起こさないことに憤りを感じ始めます。しかし、この憤りが完全で手放しなものになる瞬間も訪れない。ここが真のポイントです。デヴィッドはルースの完全な支配下にいるわけではなく、この状況をおかしいと思う程度の理性は残っている。その疑念が観客と彼とを繋ぎとめる。こちらとしてはいっそ彼がさっさとあっち側に言ってくれた方が幾分か気が楽だったことでしょう。「まんまとルースに飲まれやがって。ざまあみろ」という悪意を得たことを否定できなかったかもしれません。
  • ちなみに、理解度みたいなことの話をすると偉そうですが、しかし本作で重要な要素である「マインドコントロール」についてそこそこの知識を持っている人、あるいは体験として知っている人(そんな人に本作を観せたらトラウマ噴き出しそうで危険ですが)と、そうでない人とではまた感想が違ってくると思います。いや、知識を持っていても議論をしたら荒れなきゃおかしい内容なのです。ぼくの感想だと、本作は「逃げ道がない」という意味ではまったくもって生々しく、マインドコントロールの理想的モデルの一つとして挙げるとしても賛同できます。外部の人間には事後から見ても理解しづらく、しかし理解できないこと自体が当事者にとって「逃げ道がない」ことに繋がる。同時に本作は、デヴィットの家と家族を“愚昧”であり“賢明”である至上に普遍的で一般的(都会的)なモデルとして描くことで、観客にさらなる絶望を与えています。人によってはたとえばデヴィッドの家庭が荒れてくれてた方が感情移入できたと憤るかもしれませんが、その憤りは「普通の家庭であればこんなことにはならないはずだ!」という願望のみに導かれたものと冷静には言わざるを得ないのです。本作のテーマ的側面の一つとして、周りが“普通”だったからこそルースという怪物を駆逐できなかった、という真理を訴えてもいるのですから(そもそもおそらくルースはこの“真理”を承知の上で逆手に取っていたと思われる点で一番えげつないのですし)。しかしその真理を人に正面から受け止めろと命じるのはあまりに酷で無責任、もとい、リスキーでしょう。「あなたはデヴィッドを詰ることで自分を慰めたいだけでしかない上に、それは本質的にはデヴィッドと同じだ」なんて。逃げ道のなさに悶え苦しむことになるのは登場人物だけではないのです。なんという畜生映画!
  • 唯一救いがあるとしたら、どのような形であれ本作に対して誰しもが憤りを覚えるはずだという点です。それがルースに対してのものか、デヴィッドに対してのものか、さらにデヴィッドを許したメグに対してか(僕は彼女が少年を許したのは多少理不尽でも誰かを愛し許さなければ自分が壊れてしまうだろうと無意識に悟った感じだと肯定的に解釈していますが)、あるいは一般論ばかり並べて解決力を示せないデヴィッドの親たちや世間そのものに対してか。いずれにせよこのような事件が起こらないことを願っているがゆえの憤りだと根本的なところを指摘することはできます。その憤りによって、しかし本作は作品として実質的に肯定されてしまい得る。嫌いだという人が多ければ多いほど肯定され、無論それを理解して心酔する者によっても肯定される。絶対に否定を許さないそのえげつなさはまさに悪魔的と言ってもいいでしょうし、人が認めたくないものを真正面から100%真摯に、非情に、冷徹に描き切ったとも言える。マジで“最悪”な、しかし比類なき傑作です。

隣の家の少女 [DVD]

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デザイン変えたことで気合も新しくなったのはいいですが、構えを立派にしすぎてしまうと中身も充実させなくてはとつい気負ってしまう悪いクセがそろそろ出てきそうでちょっと心配です。僕はそういうのは長続きしませんからねえ(f´_`)