4月1日【映画録33『嘆きのピエタ』『一命』(再)】
本日のお品書き
- 嘆きのピエタ
- 一命(再)
ベイダー卿がウクライナの大統領選に出馬したそうですよ? ⇒MSN産経ニュース
お?エイプリルフールネタかな?と思ったらこれが31日のニュース。
本国なら素顔を隠し続けることで票はもらったようなもんですね。当選するとどうなるんでしょう?マニフェストは?一児のパパとして気になるのはやっぱり教育関連?
※case.728の映画録は、5段落でまとめる観賞済みの方向け参考記事を目指しています(No.18から現在)。なのでネタバレについてはあることもないこともご容赦ください。
3月25日『嘆きのピエタ』
「でも、ガンドもかわいそう」
- ヴェネチア金獅子も持っていった本作でキム・ギドク初体験。『オールド・ボーイ』や『悪魔を見た』なんかも観ているうちに一回くらい引っかけていた気でいたのですが実はからきしでしたね。系統はなんだかんだでいつもの韓国映画らしく、どこかとぼけたようなコミカルさで飾りながら、情け容赦のない沈鬱沈痛な物語。ただしかし似たり寄ったりというわけではなく、本作にはまた特徴的な味わいがございました。金獅子持っていくくらいだからどんなものかと思ったら、社会派的などうしようもなさが正体で、あまりの閉塞性にあえなくうげええってなりました。出口って何だっけ?
- 韓国のあるド底辺の工業地帯に借金取りの青年がおりました。青年は工場主から借金を取り立てるために彼らの手足を潰して保険金を横取りする日々を送っていました。そんなやり方ですからいろんな人から恨みを買い、復讐の怨嗟に飲まれてついには青年が破滅する話なのですが、もうこの時点でどうしようもないんですよね。じゃあどうすればいいのか、という問いにことごとく答えがない。青年が破滅するのは因果応報。しかし生まれた時から孤児の彼が拾ってくれた闇金の手先から足を洗って今さら生きていけるのか。トイチの借金をきちんと払わせるために、障碍保険を利用する以外の手段が果たしてあるのか。一人二人見逃しても許されるのだとしても、いったいどの一人や二人を選ぶというのか。それ以前に、「なぜ残虐だったの?」と人が彼の行く末を憂えて彼に(聞こえないところでですが)問うシーンがありますが、彼は生きるためにそうしてきたに過ぎないし、誰も彼を諭すことをしてこなかったのです。報復の怨嗟と育ての親に匹敵する会社との板挟みの青年には、どうしようもなかった。また、彼一人が死んだところで、借金が帳消しになるわけでもなく、新たに金を借りる人間も後を絶たない、という環境の側が陥っている“どうしようもなさ”も並立しています。金を借りるのが悪いなら、借りずにどうやって生きていけというのか。誰が悪いという論争はいたちごっこです。
- 母親を名乗る女性の方。こちらもまたどうしようもないのですが、どちらかといえばどうしようもなさよりも、その立ち位置の普遍性によって固められています。たとえ彼女がそれを実行に移さなくとも、遅かれ早かれ別の誰かがまた違った形で青年のところへ赴いたのではないでしょうか。それなら逆に、なぜ彼女でなくてはならなかったのか。しいて言えばこれは“母親”だったからです。実は本作はうまい具合に、彼女と同じ立場の人間が二、三人登場するようになっていて、物語の“どうしようもなさ”を強調していたりもします。実際もうひとりの“母親”が、彼女なりの方法で青年のところへやって来ていますし。最後のトラックを運転していたのがダメな夫をまるで“母親”のように支える妻であるというのも印象的です。全部が全部女性ではなく、“息子”というパターンもありましたが、本質的には同じことでしょう。
- ただ単に状況と設定による“どうしようもなさ”だけでなく、そこに切なさを煽られ感受移入させられる演出も手堅くなされています。最初に観たときは、青年が“母親”に心を開くまでがまさにコロリと音がしそうなくらい早くて驚かされるのですが、このおかげでいかに彼が愛情や母親というものに飢えていたのかが伝わってきて、後々の展開に火がつくにあたって効果的な燃料となっています。そもそも思い返してみれば、本作の冒頭部は彼が眠りながら腰を振って夢精するシーンからいきなり始まり、中盤にも夢精シーンが挟まってくるなどして、青年が「愛に飢えた男」であることはわりとしつこく強調されているのです。もちろん夢精することが愛に飢えている証拠だという単純方程式は成立しないでしょうが、しかし本作の場合は逆算的にそういう仕掛けになっていると推察されます。
- 「貧乏が全部悪い」一番もっともらしいのはこれでしょうね。「苦労したことがないから“もっともらしい”なんて言えるのだ」大人の人はたいていそう言います。「“もっともらしい”のではなく、それが事実だ」“言える”のはそうかもしれませんね。しかし人の感情の矛先は、貧乏そのものには向かないものです。人が皆人を憎まず、純粋に自分の運命だけを呪うようになれるのであれば、周りの人間を不幸にして自分も傷つけて、苦悶に満ちた最期を迎えるなんてことだけにはならないはずでしょうから。
- 本作のもう一つの核心は、しかし“母親”の“愛”による“どうしようもなさ”だったとも言えます。こちらもかなり大事な要素ですが、6段落目ですのでここでは手短にまとめましょう。3段落目の「母親だったから」という話のも繋がるのですが、同様に“母親であるがゆえに”あの女性が陥ったジレンマもある。少なくとも“母の愛”が“息子”を差別するものであるか否かを問うて、その重苦しさに懊悩することも本作では可能です。
3月24日『一命』(再観賞)
「武士に二言があってはならない」
- 竹光で切腹する瑛太と海老蔵両者の鬼神のごとき怪演が忘れられず、そのうち必ず観直そうと決めていたものです。過去記事では備忘録程度の短いパッシブな感想しか書いていなかったので、今度はしっかりとマッシブに(笑)。いやはや、やはり竹光切腹は意味が分かりませんね。愛する人のために腹をくくり首までくくる、その真理はもはや使い古されたおかげで現代人の僕らでも理解できることですが、竹光で切腹って、「やるやらない」じゃなくて「できるできない」の次元の話、ですらありませんよ普通に考えて。1次元とかきっとそういうところの話ですよ。どういうことなんですか。ええ?
- と、こんなにも熱苦しく戸惑ってしまうのは、切腹という“文化”にちょっとした思い入れもあるからなのでしょうね。戦をすることをやめた江戸時代における、武士の価値観。それを闇の面からではありますが、そう言える一側面からかなり的確かつ包括的に象徴する重要なファクターが“切腹”です。この文化が肯定されることで、武士が自己や家族の責任に対して真に命がけであることが肯定される。武士の覚悟は口先だけのものではないと保証される。やはりこの肯定感ですよ、僕が好きなのは。
- しかし、“文化”は言い換えれば治世のための建前でもあったりする。伴うことが大前提とされる内実が伴わないのだとしたらいかに見苦しいことか。建前のために身を滅ぼした者がいるのだとしたら当然問われねばならない、美化されたものに対する問いかけを、本作は僕のような時代劇に慣れ親しんだ人間に真正面から突きつけてくるものです。時代劇に思い入れがあるとないとでは、多少印象が違うかもしれませんね。
- また本作はこのような疑問を突きつけてくると同時に、当時の社会的な“どうしようもなさ”を孕む物語でもあります。潔からぬと言われても、社会をなりたたせるためにある虚飾もある。誰も死にたくはない、皆幸せに生きたい。死にたくないからこそ“必死”が光るというジレンマ。また、最初に観たときはそこまで気にかけなかった気もしますが、図ったように「貧乏が悪い」という共通項の“どうしようもない物語”の映画を同時期に観たせいでしょうか(こっちのが先でしたが)、登場人物たちの境遇の恵まれなさや厳しさ、人の世のはかなさなんてものにより深く感情移入させられていました。回想の方のシークエンスなんかもうずっと暗い気持でしたからね。なんていうか、「何が間違ってたんだろうか」という感慨が絶えなかったです。
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