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映画とお人形ばかりで恐縮です

4月3日【幽霊視点について】

on approach to a shrine

思い出したように自己の本分を顕示してみる。ノリの問題でだである調でお送りします(矛盾)

恐れながら申し上げれば今現在優先的に構想を練っている作品が「幽霊視点」である。意味は言葉そのまま、意識と人格を持って現世を漂う霊体の視点。作例としては乙一の『夏と花火と私の死体』が真っ先に挙がるだろう。無論、一人称。視点者である幽霊が見て聞いて感じ考えたことがのっぺりと地の分に連なる。

ほぼ課題のような心地で手法はそれに固定することにした後、問題は何かを考えていた。
幽霊が視点者と言ったが厳密にはその登場人物が主人公格でなくてはならない。それなりのカタルシスだのドラマだの、比較的エンターテイメント性の高い作品(中高生向け、あるいはサブカル層向けのもの)を成立させるうえで、幽霊の主人公をどのように処理すればいいか。もとい、作品の成立のさせ方としてどのような方法があるのか。要するに、物語のパターン、多様性がどのくらい考えられるのかという話である。


先に、現在考えている作品の「幽霊」に関する必要条件を並べておこう。

  • 視点者となる幽霊は1人
  • 性質として背後霊にあたり、特定の人物(主役級が望ましい)の近辺を常に浮遊。離れることも可能だが距離制限がある(離れすぎると見えない力で引き戻される)
  • 幽霊は物に触れられない。また、自身の姿も見えない(鏡にも映らない)。実質的には目と耳だけの存在(嗅覚や温覚くらいは許容)となる。ポルターガイストも禁止
  • 幽霊に特別な力はない。あえて言えば重力の影響を受けないことと他人に認識されないこと
  • 幽霊が見える人物を登場させない。あるいはごく少数にとどめ、隠し玉として扱う
  • 幽霊の声が聞こえる人物を登場させない。あるいはごく少数にとどめ、隠し玉として扱う
  • 思いの力で声が届く展開は禁止。もとい究極的に最後の手段
  • 1人だけ、同じ人物に憑いている幽霊を登場させ、話し相手とする。この幽霊は必ず幽霊としての先輩である
  • それ以外の幽霊は、原則として登場させない。少なくとも会話ができるのは同じ人物に憑いているもう一人の幽霊とのみ

以上の条件のうち、先輩幽霊に関する項目以外はすべて、「幽霊」を俗世間的な霊的存在というよりも、「蚊帳の外で思考するだけの存在」たらしめるための条件であると言えるのではないだろうか。
とかく具体的に起こる物事やそれに関わる人々から視点者を完全に隔離した上で、視点者には見聞きしたことを受けた思考のみによってカタルシスを得てもらいたい。と同時に、視点者の働きかけがまったくないにもかかわらず進行する“蚊帳の内側”の物語が、視点者の思索に対しては影響を与えるものでなくてはならないというわけである。
もちろんさらなる前提条件として、“蚊帳の内側”の物語がそれ単体ですでに魅力的である必要もあるが、ここでは上に書いた課題的条件をこなしたのちに物語の魅力がどの程度損なわれるのかを考慮すべきであると考えられるため、一旦割愛とする。

言い方を変えれば、作品をエンターテイメント性の高いものに仕上げるにあたって、上記の条件のうちどれが無茶なのか、あるいは無意味なのかを推し量る必要があるとも言える。

乙一の『夏と花火と〜』はさすがに評価が高いだけあって、上記の条件を用いる上でも非常に優秀な作例であると言える。ただし、乙一のあの作品は、視点者の幽霊と被憑者(取り憑かれている人を以下こう呼ぶことにする)が、殺人の被害者と加害者という非常に直結的な構図にあり、さらに視点者が幽霊となったこと(殺害されたこと)が物語の大筋に直接的に関わっていて、作品の全体像がかなりつかみやすい構造となっている。夏休みの読書感想文の題材としても、非常に扱いやすい作品だろう。
この点で、別に差別化を図りたかったわけではない。が、今自分が考えている作品には、さらに次のような条件が追加で挙げられる。

  • 視点者(幽霊)の死と被憑者および物語との間に重大な関連性を設けない

たとえば竹取物語を使って、求婚した右大臣らの従者を主人公に据え、火鼠の皮衣を調達するために奔走させられたりしながら、かぐや姫の月への帰還を阻止するための弓兵として駆り出されるまでというスピンオフを書いたとする。この主人公は、竹取物語本編と一応の関わりはあるものの、あくまでそこは間接的なものであり、本質的には蚊帳の外であろう。そしていつから蚊帳の外であったのかといえば、最初からである。この点が大事だ。

「幽霊」が視点者の場合、「憑く・憑かれる」という関係性が必要である以上、このかぐや姫と右大臣の従者の例のように物理的距離まで「外」ということにはならない。居合わせたところ片方が死んだにしても、居合わせた理由やそれで憑いた理由くらいは出てくるだろうし、たとえば幽霊となる視点者は最初に倒される雑魚キャラとかの場合、被憑者や物語に顧みられることはないだろうが、幽霊は一方的な動機で憑くことができる。そしてどちらもここまでに箇条書きにした条件は満たしている。

一応今考えているのは「居合わせた」パターンの方だ。仕事、部活、クエスト、ミッション(なるべく世界観を問わずに語りたい)、とかく何らかの要因でとある二人が居合わせ、薄いつながりができていたところで片方が死亡する(もう片方に殺される以外で)。なぜこのとき居合わせたもう一人の背後霊となったのかの部分は、最初は謎にしておいて後々解明されるようにして面白い設定として利用してもいい。とにかく死亡するのは物語の本筋と関係のない方。

まあこういった具体的なところを詰めていくと物語単体の方の話になっていきかねない。それありきだという意見もあるだろうが、今はパターンをより多く考える方が先決である。これだけ条件を書き連ねた上で改めて問題にしたいのは、「幽霊」という視点者が持ちうるカタルシス、「幽霊」が思索と感傷によってその価値観を到達させる場所――心の成長の有り方である。

「幽霊」の心の成長には、生きている人間とはまた違った障害が考えられることだろう。そもそも死者には未来がない。さらに上述の条件によって、外界に影響をまったく与えられないとあっては、成長の意義を見出すことすら危ういと言える。生者は死後の世界に安息を望むものだが、死者は死後の世界でそこで何を成せばよいのか。

やや恐れるのはこの結論如何では作品自体が哲学的になりすぎて難解なものとなってしまうことである。いやさ、ある程度は覚悟が必要であろう。“イイカンジ”にぼやかしたとしても、どうしても消化の良いものにはなってくれまい。ただ、説教もとい説法じみたものになってしまうのだけは、個人的に好ましくない。

どちらかといえば、隔離されることで陥ってしまいがちな内在的な心の成長という閉塞感をこそ克服したいと考えている。幽霊の心の成長でありながら、彼/彼女の目は外側を向いていると言える結論へ持っていくようにしたい。多少平和ボケした理論を持ち出してきても構わないだろう。自分はこの課題において、「モニターに向かう者たち」の心理が何かヒントを持つのではないかと考えている。

先の条件において、「幽霊は目と耳だけの存在」としている項目がある。厳密な相違までここで問うつもりはないが、「目と耳だけ」であるのはテレビの視聴者やネットサーフィンをする者も大いにあてはまるところがあると考えている。
少なくともSNS等の手段の存在を考慮から外せば、我々はモニターを介してモニターの向こうにある現世に干渉できないことになっている。にもかかわらず、スポーツが好きな者はスポーツ観戦をして好きなチームを応援し、特定のタレントが好きな者はタレントの動向を見聞きして一喜一憂する。
普段我々はそのような行為に何の意味があるのか、なぜそんなことをする必要があるのかは考えない。考えたとしても概ねは「好きだから」か「興味があるから」か、あるいはそれに類し詳細に解説しただけの答えにしか行き着かないだろう。「好きになる必要があるのか」「興味を持つことに意味があるのか」とまで誰も問おうとはしないものだ。

が、はっきり言って「◯◯に興味のない人間」から「◯◯に興味を持つ人間」に対して、この疑問はわりと日常的なものではないだろうか。少なくとも疑問が浮かぶまでなら、誰しも経験があるはずだ。「何がそんなに面白いのか」
もちろん、この両者による問答が平行線を辿ることもまた想像に難くないものである。ともすれば諍いの種となり、社会では人間関係にヒビが入る。
だが、なぜそこで諍いの種になるのかといえば、尋ねる側の人格を問題にしなければ、ひとえに答える側も言葉に窮するからである。「好きなものは好きだ」という至言が示すとおり、その原理は普遍的に名状しがたいものだというのだ。
しかしながら、間違いなくそこに原理は存在する。言葉にはできなくても理屈というものは存在できる。限りなく言葉を費やせば名状できなくもないと言い替えてもいい。

この肯定の過程を、幽霊の心の成長にもあてがうことができないだろうか。

外界をただ認識するだけの存在が、自分の虚しさを克服し、見聞きしたことに一喜一憂する。
そこに上手に理屈を設け、その理屈を「幽霊」に導き出させられるだけの外的要因を取りそろえれば、一本の小説作品として仕上げられるのではないだろうか。

では、果たして我々は、そのように「幽霊」を肯定できる理屈を、いくつ用意できるだろうか。
「死んでいるから何を思っても意味がない」と打ちひしがれている死者を、どのような理屈で励ましてやれるだろうか。
本当の課題はここからである。

ただしこれは文章による創作のために必要な課題であり、死者の弔いや死生観についての何らかの意見を持つものではないことはここに明記しておく。

追記(同日)

ここで言う「幽霊」をもっと広義に捉えると、「蚊帳の外の者」と言うことができる。
この「蚊帳の外の者」を視点者に据えた作品であれば「幽霊視点」の作品よりも格段に数が多い。どちらかと言えば魅力的な“蚊帳の内側”を作るための参考材料なのでこの記事の本題からは逸れるが、重要な話ではあるため追記しておく。