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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

4月4日【劇場映画録『白ゆき姫殺人事件』】

一時期(今もか)流行った玄米雑穀とか古代米とかは健康にはいいかもしれないけれど触感が微妙。
と、たとえそれが事実を述べただけの意見でも「現代人は(噛む力とかが)なまっている」なんて叱られるのが世の常です。良い悪いを押しつけるための伝家の宝刀化していることにはなかなか気が付かれないもの。気が疲れるだけですね。いや、まあ、ダジャレを言いたかったんですけど、このダジャレが面白くなかったからこの記事を読むのをやめようかと思う人がどれだけいるでしょうか。良いも悪いも反感を買ってしまっては本懐をさて置かれがちだということです。人間同士の板挟みにあって可哀想なのは事実と情報。僕だって嫌いな人がBOSSを飲んでたら明日からFIREにするかもしれません。

とかなんとかいう人情のお話の中で自分の中ではわりと存在感のある古代米。それで作ったパンをサンドイッチで今日食べたんですが、これがやわらかくておいしかったときの感動といったら。たったそれだけの話をするために御託を並べてしまいましたが、なんていうか、何も言えずに板挟みの憂き目に遭っているものとばかり思われていた古代米が、自分から対立している双方に向かっておまえたちのいがみ合いはくだらないものだと言い切ったような、そんな青天の霹靂だったのです。僕は自分がとても恥ずかしかった。

衝撃の昼食を食べ終え、その足で劇場へ向かいました。今日は『白ゆき姫殺人事件』です。
とりあえずグルメレポートから初めて見たのはRED_Starさんに対抗意識を燃やしたわけではありません。彼のために観に行ったようなもんなんですけどね。


以下、映画の感想。直接的なネタバレは避けていますが、物語の核心には触れています。








《端的ながら的を射た“バカッター”風刺と古臭すぎるマスメディア描写/ドキッ!?女だらけの『藪の中』》

ツイッターによる炎上が題材と聞いてちょっと気になって観ようかどうしようか悩んでいた折、公式のトレーラーで綾野剛を見た瞬間観に行くことに決めました。髭を生やして色黒にしてちょっとメイク変えただけなのに、あまりにもイラつく顔だったので(笑)。
ツイッター炎上が題材と聞いた時点でいわゆる“バカッター”の描写が出てくるのだろうと踏んではいました。軽い気持ちでツイッターに情報を垂れ流すイマドキのワカモノが彼の役。まさにそういうイメージにぴったりの顔をしていたものですから、これは見ものだと思ったわけです。

先に断わっておけば、僕はツイッターが大嫌いです。あのツールの愉しさや便利さも知っていて肯定しながらなので、厳密には苦手と言った方がいいかもしれません。が、その裏の闇の部分に対する嫌悪感にはかなり根深いものがあります。もっと言えば、ネットそのもの全般に対する生理的嫌悪感や恐怖心や危機感といったものが、あの一つのツールの中に凝縮されていると考えてしまってもいる。ですから、本作についての感想にも、そういった強い個人的なマイナス感情がかなりの部分反映されているだろうとは思います。悪しからず。

というのも本作、僕がツイッターに対して抱いている嫌悪感の元凶をやたら的確に抽出していて、映画を観ながらツイッターを眺めていたときのような苛立ちを覚えさせられたという意味では、ツイッターの描写自体はかなり秀逸な方だったのではないかと思われるのです。

たとえば、「投稿しない(つぶやかない)」という選択肢の欠落がその一つ。
これは主観的な意見です。が、多くの「ツイッター常習者」と呼べる人々のうち、ある程度良識やネットリテラシーについて明るい人でも、投稿する(つぶやく)ためにどのような言葉を選べばよいか、ということは考えても、投稿するかしないかは常にすることを前提にしてしまっていることが多いのではないでしょうか。
これと同時に、「沈黙の不在」と呼べる現象があります。
目の前で口を閉ざしている人は、口を閉ざしているということ自体や目つきや顔色で客観的に反応を推察してもらうことができます。それが実際の「沈黙」です。しかしネットでは、言葉によって何かしらのレスポンスを飛ばさないと「沈黙」すら受け取ってもらえない場合がある。ここに人の自己顕示欲(または承認欲求)が重なる例は、電子メールなどでも気が付きますし、自分自身も心当たりがあります。この欲求と並立する危機感によって、知らず知らずにうちに投稿する側は「沈黙」という選択肢を失くしていく。もちろんちゃんと「沈黙、不投稿」を選択できている人というのも中に入るでしょうが、問題はこの人たちが顕在化しないことでもあります。部屋にいる人のうち何人が押し黙っているかは目で見て数えればわかるでしょう。しかしネットの特にツイッターでは、発信をしていない人間を数えることはできない。すると自然、「沈黙している人」はいないことになる。これでまた、知らず知らずのうちに「投稿しない」という選択肢が忘れられたり、投稿するのが当たり前で、その内容についてだけ議論することが常習化してしまう。

「黙れ」とも言えないんですよね。いや、言って意味がなければ人はつぶやき続けるし、本当に黙られたらちゃんと聞いているのかどうかもわからなくなる。相手が目の前にいればそんなこともない。

時に人は人に立ち向かわなければいけないこともある。声を張り、恥も外聞も犠牲にして、罰を受けてでも戦わなければいけないことがあると、感じてしまうことがあり得る。冷静になる方が先だという意見はもっともですが、極端な話、殴りに行くという選択肢そのもののない歯がゆさが存在するのも否定できないところ。感情に任せるうちは言葉だけの批判を送ることのなんとむなしいことか。
いやさ、直接怒鳴りつけに行くのを推奨したいわけではありません。
ただ、そういう選択肢がない環境というのは、なんだか人間らしくない。気持ち悪い。キモい。
また、一辺倒に「感情を捨てよ」という論法も、浮世離れが過ぎるのではないか。

……という話が多発する地帯。これが本当の問題点です。

だいいち集団の「火」を恐れていてばかりでは社会ではやっていけないことは少なくありません。ある程度の遭遇は覚悟しなくてはならない。10回遭遇してそのうち9回はやり過ごしてしまうかもしれない。人間なんてそんなものかもしれないと受け入れなければいけないかもしれない。それは耐えなければいけないのかもしれません。
しかし100回遭遇するのと10回遭遇するのでは話が違う。
100回中10回立ち向かえるかといえば、実際問題そう単純にはいかない。「1割」ではなく「1回」、比率ではなく基数なのが人の人生。
多くて9回だったものを99回捌き切れと言われたら、さすがに途方に暮れます。

あまり長々と僕のツイッターに対する危機意識を語っていても面白くありません。「沈黙の不在」などは例の一つに過ぎませんがこれに留めて、ちょうどここで映画に直接関係のある話をしましょう。

ツイッターを初めとしたネット上の炎上というものは、ネットの存在しない社会でも発生し得るものです。小さなきっかけから始まってなぜかエスカレートしてしまった会社や教室内のいじめとか、悪い噂のせいで出来あがった村八分などがそうでしょう。集団ヒステリーも近いものがあります。

しかし、教室内や一課内で起こったことであれば、火の広がりは学校や会社、せいぜい町一つ単位と言ったところが関の山でしょう。この「規模」の問題はそのまま、人一人あたりの遭遇率に匹敵することはわかると思います。
そして、こういう現象への「遭遇」は、そのまま「加担」に成長することが多い。集団における「火」というものは、人間そのものを燃料としている。

ここで、ツイッターという単位でまとめてしまうと、この「火」への遭遇率は途方もなく膨れあがることになります。
フォローによる小集団の形成を考えれば、ツイッター全体を一集団と見てしまうのには違和感があるという意見もあるかもしれません。しかし、小集団同士はツイッターというやはり大きな枠の中に概ね繋がっている。フォローによる小集団の起こした「火」が、“ツイッター”に集積されているとも言える。

集団の「火」はまさに実際の炎と同じく、ある程度大きくなるともはや人間の力ではどうしようもなくなります。そういう意味では、集団に起こる「火」は悲劇的な現象であるとも言える。その集積地に足を踏み入れて、「沈黙」という選択肢も忘れてしまい、救いようのなさに悶え苦しむようになったとき、はたしてどれほどの人間が燃料とならずにいられるか。

いやさ、「悲劇」と言い表すことには憤る人もいることでしょう。当然です。集団において「火」が起こるのは、人の愚かしさが折り重なったときのこと。人が愚かでなければ「火」は起こり得ない。足を踏み入れて燃料にならずにいられるかとは言いましたが実際は踏み入れる(発言する)ことがすでに加担することだったりします。人の愚かしさを憤らずにいられるのは相当かどのまるい人か開き直っている人くらいで、多くの人は他人の愚かしさを嘆き憤る。その集積の地たるツイッターを見て、“バカッター”と侮蔑を込めて呼び改めたくなる人の気持ちもわかろうというもの。たとえ憤り蔑むこともまた人の愚かしさだとしても。
集団の「火」は人の人らしさの結果の一つだとも言えるのです。あまりにどうしようもなさすぎて、客観すると吐き気を催します。いわんや集積の地たるツイッターをや。

ということをですね、本当に率直に思い出させてくれる描写でしたよ、本作が取り上げる“ツイッター”は。
リアリティがあったかといえば少々首を傾げます(判断に困る部分もあります)。ツイッターの嫌なところをかなり限定的に抽出していたため、どちらかといえば寓話的なところが大きかったとも言えます。おかげさまで僕の心情は上記のとおり煽られに煽られたわけですが、しかし本作はツイッターやネットが独立した題材としてあったわけではないんですよね。
そしてまあ、ぼくみたいにSNSの悪いところを再認識させられる以外の構成要素は、正直なところどれもあまりパッとしなかったなあ、という感想。だからといって別にSNSネガキャンが主になってしまっているとは言いませんが。というかSNSツイッターの描写自体、実はあんまり派手じゃないんですよね。『藁の楯』を期待するとがっかりします。

そもそも、これも個人的な好みの問題かもしれませんが、結局ツイッターよりも「女ってこわいわよねぇー」という結論が半分を占めてしまっているあたりが、またこれか、という感想。
いや、自分が女性でない上に、女性同士の問題に殿方は出る幕なしが自分の意識でも定石に等しいせいで、完全に他人事として捉えてしまう節があるのだとは思います。しかしながらこの手の「女のこわさ」はさすがにもう女性から見ても「何をわかり切ったことを」と思うようなものではないのでしょうか。
少なくとも本作においては、この要素に関連したところで目新しさはまったく見当たらないんですよね。ツイッターの描写が先鋭化された“バカッター”として鮮烈で吐き気を催すほどだっただけに、「女のこわさ」ももっとゲロゲロにやり切ってほしかったところ。正直本作は僕の中で、「この春一番の胸糞作品(称賛)」になりかけてなり損なった感じです。

一応拾って楽しいところを拾えば、いくつかの出来事に関する真相は曖昧なまま結末を迎えています。本作はサスペンスの皮をかぶったドロドロ人間模様なので、いわゆる探偵役のいて証拠が提示されるタイプのミステリではありません。「真相」はすべて人の口から語られます。
本作の表側では後出しじゃんけんの法則が発動し、最後に語られる「城野美姫の告白」がすべての真相であるかのように演出されています。しかし結局は「自白」であるがゆえに、いくつかの点においては信憑性の裏付けが取れていない部分があるのです。

正直その部分は「(「城野美姫の告白」の内容で)まあいいや」という感じがしなくもないことばかりですが(先述のとおり他人事という意識が強いようです)、ただ、作品中で「人は自分の記憶を自分の都合のいいように捻じ曲げる」という指摘が印象的に行われる場面があります。作品的に意図のない場面とは思われないため、やはり自白の疑わしさを強調するためのくだりでしょう。「城野美姫」だけが嘘をついていない証拠はないことに気づけば、藪の中的な考察ができなくもないかもしれないですね(試してないことがバレる発言)

あとは、「長い」がまず一つ。
不自然に引き延ばすような尺の取り方、描写の仕方が目につきました。
たとえば狩野里沙子の想像の中で城野美紀が三木典子を惨殺するシーン。特に濃厚な狂気が感じられるわけでもなく、必要な演出とも思われないのに長回しで、そのくせモノローグは重ねずシーンが終わってから。明らかに情報の伝達だけが目的ですから、ぶつ切りにして半分以下の長さにできます。
というようなシーンがやたら多く見受けられたんですよね。内容的にも90分枠でよかったんじゃないかって正直思いますし。中村義洋監督作は何本か観ているのですが、確かにあまり濃厚な演出やスピード感のある編集の仕方は観たことがありません。やらないのかできないのかはさておき、少なくとも本作が必要とする作風とはあまりマッチしていなかったのではないかと(あれ、でも『ゴールデンスランバー』もこの監督だったような……)。

さらに、個人的に致命的だと思えたのは、作中の「ワイドショー」の古臭さです。
よしんばあれがマスメディアからの自虐ネタだったとしても、いくらなんでもあり得なさの方が目立ちます。そのあり得なさというのが、いつの時代のワイトショーだ、と突っ込みたくなるような古臭さなんですよね。演出はもちろんのこと、報道的なリテラシーの面でも。

そもそもツイッターを取り沙汰にするということは、かなり現代的な趣の作品となるわけでしょう?しかも本作はわりとシリアス。
そんな中で、ネタとして出してシュールさを狙ったのだとしても、古臭さはかなりNGだと思うんですよ。しかも本作で「ワイドショー」は、ネット冤罪と連動することでかなり存在感のある装置にもなっている。デフォルメに走っている場合ではないと思うのです。いわんや真面目にやっていたのだとしたら話にならない。

「女のこわさ」に関しても実をいえばそうです。古臭い。
せっかくツイッターという、悪魔に渡せばこれほど恐ろしいものはないと言えるかもしれないツールを取り沙汰にしたのですから、せめてあの女性たちが複数アカウントを持って、アカウントごとに別人のフリをして事件を引っ掻き回す“自演の狂乱”でもやらかしてくれなければ割に合いません。大スクリーンで火サスを見に来たんじゃないんだよ!(爆)

唯一手放しで評価したいのはキャスティング
とりあえず真っ先に赤星を演じた綾野剛ですよ。別に綾野さんが嫌いなわけじゃないと先に言っておきますけど、本当に“呆れ返るようなクソ野郎”でしたからね。“痛快な”とつけて“クソ野郎”を時に賛辞する僕ですが、赤星は本当にただのどうしようもないダメ男。その役というか目つき顔つきから風体から何から何までぶっすりハマってましたからね。いやはや、本人の素行はまったく関係ないんですけど。

他もまあ忌憚のない言い方をすれば、本作の登場人物は主要から脇まで全員頭が悪いか民度が低いか性格がいじけているかそれら全部かのどれか(概ね共通点として「おまえは自分が『悪』だと気づいていない、もっともドス黒い『悪』だ」byウェザー・リポート)しかいないのですが、それを演じる俳優がまたことごとく胸の悪くなる顔をしているんですよね。もちろんメイクや言動による役作りである部分が大きいのでしょうが、よくもまあこんなに配役にぴったりの面々を揃えたものだとさすがに感服を禁じ得ませんでした。
個人的にお気に入りの赤星を除くと、配役の秀逸さはダンカンが次点で、トップは金子ノブアキ生瀬勝久のおふたりでしょう。

金子さんは女性同士の競争の渦中にいてあのキャラですからさすがにむかつくことこの上ないですし、何よりあの髪型はずるい。
生瀬さんはごめんなさい、あの「ワイドショー」で司会で出てきた時点で吹き出さずにはいられませんでした。毎度番組の最後を締めることであの「ワイドショー」の胸糞の悪さを全部引き受けてしまってましたね。ある意味一番自然体なのがめっちゃイラッときました。いいえ、褒めています。

変な不満を言えば、主演はなんやかんやで井上真央さんですからね。いえ、地味系女史の演技はよくできていたと思います。それにしちゃあ美人じゃないかと思わなくもないですが、都会の私服オフィスレディ的な派手さはない、田舎の自然が似合う美人。
ただしスタイルの良さは別である。わりと出るとこ出てますし。横から見てくっきりかたちの出る服を着てるところがあって、Cあるか?B強かな?とちょっと吟味してしまいました。あ、いや、大きさの問題じゃなくて、もうちょっと地味系らしい服装で通してほしかったな、という話です。はい。

というわけで、『白ゆき姫殺人事件』でした。
一応胸糞映画の一端ですね。さすが湊かなえ原作。この春一番になり損ねたとは言いましたが他に胸糞映画が見当たらないので実質一位です。赤星に因果応報的な結末がなかったらメタ的な意味で胸糞悪かっただろうとは思います。事件があの結末だったもので、早いところ『サクラサク』で口直ししなきゃつらい、とか思ってましたから。そうでなくても次観に行くのはそれか『ダラス・バイヤーズクラブ』なんですけどね。