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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

4月9日【劇場映画録『サクラサク』】

on approach to a shrine

さだまさしの著作に最初に触れたのが中学生のときです。『解夏』の中篇集。学校の図書館の文庫本コーナーから借りたんだと覚えています。今でもあるのかしら。

自分は中学と高校と、とかく“人生観”なんてものにこだわる方の少年でしてね。いや思春期がドツボにはまったタイプの根暗な子供だったんですけど、対照的に前を向いて生きることの難しさとか苦しさとかといっしょにある美しさあたりに心惹かれたんでしょうか。妙にその著を気に入りましてね。もちろん読書は好きでしたが、特に熱心な読書家というわけでもなかった自分にしては珍しく、三回くらい借りて読み返して、最終的に古本屋で求めて手元に置いたほどです。今もあります。

そのあと『眉山』を読んで、『アントキノイノチ』を読んでと、同著者の作品をいくらか巡ってどれも好きになりましたが、なんやかんやで心はこの『解夏』の中の四篇のどれかへ戻ってくるようです。最初に特に好きだったのは、本のタイトルにもなっている『解夏』と、『水底の村』。高校の終わりくらいからは『秋桜』。そして、ちょうど今骨身に沁みると感じてやまないのは、最後の『サクラサク』。

この度映画化されると聞いて、まんまと飛びついた次第でありました。まんまと。


解夏 (幻冬舎文庫)

解夏 (幻冬舎文庫)

解夏

解夏

以下、感想本文。直接的なネタバレは避けていますが、物語の核心には触れています。









《実力派俳優揃いの教育テレビ、ただし子供には観せたくない/最初からサクラ満開の旅路、吐き気を催す邪悪とはッ!/今春マイ・ワースト》

眉山』と『解夏』に関しては、実はすでに映画化されたものをちゃんと観たことがあります。忌憚なく言わせてもらえば、両映画とも易々と納得のいく出来ではなく、ともすれば改悪だと言い放ちたくなるような内容だったと記憶しています。
まあ中学の時分に影響を受けるといった経緯で思い入れの強い作品だったこともあり、通常よりも「あれそれはこうでなくてはならない」といったような強情が見る目に作用していたのも明らか(特に『解夏』の映画なんかは大学初期のかなり青臭い時分に観ましたし)。通例、原作を知っている映像化作品でも、「原作は原作。映画は映画(アニメはアニメ)。双方とも好きにやればよい」という信条の維持を観るうちは心がけていますが、根の深いものにはいかんともしがたいことがあります。

本作も、うーん、正直期待しすぎたのかもなあ、と。

しかしながら、いったん原作を忘れたことにして思い返してみても、やっぱり映画として凡庸でつまらないという感も否めないようです。「いつもの日本映画」という言い方はあまりしたくないのですが、そういう凡百の一という感じでした。というか、見方によってはずいぶんと粗雑な作品だったとも。

本作は、主人公の父である俊太郎(藤竜也)に起こった認知症とその進行を巡る問題を全体の下地にしながら、家族の問題についてのアプローチで前半と後半に分けることができます。主人公・俊介(緒方直人)の仕事での成功の様子と、バラバラの家族という対照的な構図を描いていくのが前半部分。家族再生のために俊介が一念発起して、父の故郷を探す家族旅行に出かけるロードムービー的なのが後半部分です。

前半部分はその構成においてわりと光るものがありました。
仕事においては順風満帆ながら家庭を顧みてこなかった俊介とその家族が、父・俊太郎の認知症という事態に遭遇したことで、家族がバラバラであることがいかにやるせないことであるのかという現実が浮き彫りにされてゆきます。
この部分で一番大切なのは、主人公の俊介を通して見える仕事場と家庭とのギャップをいかに印象的に表現できるかどうかと、そのような環境で父の認知症に遭遇し、父からも家族からも一方的にショックを受けていく俊介の心境にいかに表現し、観客にも感情移入させられるかどうか、という同時進行すべき二つの点です。
要するに、俊介を通して見える「仕事」と「家庭」と「老いた父」なのですが、本作の前半では俊介の仕事や家庭外での役満ぶりを大きく強調することで、他の二つから受けるショックをより印象づけられるものにしています。何よりこのギャップを上手く利用した構成で、「仕事」によって輝き一杯に満ちている俊介の人生に、「家庭」から度々風雲急を告げられる横やりが生じ、場面もオフィスから自宅へ移ることで、物語に捉えやすい緩急がついているのです。「仕事」の「家庭」のギャップというのが、身近でありながら普遍的な意外性を持っていてある意味親しみ深いのもいい効果となっています。

またこの“風雲急を告げる”の要因が「父の認知症」であり、間接的に(逆算的に)「家庭」の問題を提示してくるようにもなっているため、必ず俊介は「家庭」と「父」の両方向から同時に追い立てられることになります。自然と「父」の問題と「家庭」の問題がひと続きになるようにされているのです。
このため、「仕事」と「家庭」とのギャップが、同じように「父の認知症」に関するショックも引き立て、俊太郎の病状の憐れさとのっぴきならなさが自然に強調されてもいるのです。

もちろん、父が存命でそこそこいい歳の自分だからこそ、ある程度身につまされるようなところが多かったというのはあると思います。あの風呂に入れるシーンなんかは冷静ではいられませんでしたね。同じことを自分が父から言われたら立ち直れるだろうかと考えてしまいます。

シーンの切り替えを多用して言葉少なに表現していくのもよかったです。テンポの良さはもちろんのこと、肝心なことまで言葉にならないセリフ運びはとても綺麗で、ままならない人間関係の様相を上手く表現していました。

ただ、原作好きとしてひとつ気にかかったのは、「家庭」に関する“情報”がいささか大量かつ不自然に削られていたこと。妻の昭子(南果歩)とガーデニングの関係については悪くない方ですが(玄関の歩行用手すりを鉢植えが遮っている画はかなりよかった)、息子の大介(矢野聖人)と娘の咲子(美山加恋)は、現状に至った理由があまり描かれていません。原作には大介の高校中退したこととその理由が記され、また咲子はもっと目に見えて人情のあるキャラです。

とはいえ、これはまだ前半だけの話ですし、映像化にあたって本作は目線をより俊介寄りにしたものを目指したようですから、実は大介も咲子も設定から見直しがされており、そこを見えないようにすることで「俊介には家族が見えていなかった」という要素を強調し、さらに後半で明らかにしていくことで俊介の視界もひらけていくように見せる、という仕立てにするのかな、と思っていました。昭子が原作に比べて過剰に薄情な女に見えたのも、後半にないはずがないあの「謝罪」のシーンをより引き立てるための布石なのかな、と。悪く言えば後半のハードルが高くなっているのですが、よく言えばお膳立てがよく整ってもいたわけです。

そして後半ですが。
すでにあんまり書きたいくなくなっています……。

ロードムービーが始まってから本当にいいとこないんですよね。
思い返すだに、ひたすら気怠かったとしか。
前半に見えた良さもことごとくどこへやら。クライマックスまで待てなかったんだと言わんばかりに、ここから監督の脳内にはサクラサキみだれてちょうちょが飛び始めてしまったかのようでした。

とりあえず、クサい。

いやさ、さだまさし原作ですから多少クサくなるのは当たり前です。現実はこんなにうまくいくはずない。けれど、こんなにうまくいけばどんなにいいだろう。クサいものをクサいまま上手に料理することで、人の憧れを刺激することだってできる、その一つのかたちがこれだとさだまさしの原作を指して言うことはできるのです(ていうかさだまさしの作品でなくてもそういうことを感じたいからこそこういう映画があるんでしょう)。そもそもリアリティ云々を追求するような作品では最初からありません。

が、この映画は本当にただクサいだけ。
憧れの対象として見るにはあまりにお粗末な、隣の家の庭の趣味の悪い花壇。

まず台詞回しが一気にクサく、幼稚になります。
わかりやすいのですがまるで教育テレビ。雰囲気は二の次。

そのくせしゃべりすぎ。登場人物にしゃべらせすぎです。
日本のテレビドラマや映画は全部セリフで説明してしまうのが良くも悪くも癖であると言いますが、ここまでしゃべらせないと理解されないものでしょうか。これこそまさに教育テレビじみていると感じたところです。
前半が言葉少なにいろんなものを表現しようとしていただけに、いっそう顔をしかめさせられた次第。

正直自分は理解のしやすさと共感のしやすさは、あるところから反比例するものだと思っています。リードがかいがいしすぎると頭や体はついていけても鬱陶しさが鼻について心が離れていくのです。車に乗り慣れてから助手席の人間にギアの変え方をいちいち指示されたらドライブの楽しさも台なしでしょう(AT車の時代のこの例えもどうなのか)。しかも指示そのものが下手とくればもうぶん殴りたくなってくるに違いありません。それと同じです。

いいえ、これもまだ、看過しようと思えばできなくはありません。心を静めて台詞回しの貴賤など考えず、言わせたいようにさせてやろうと多少上から目線になることで自尊心を慰め理性を保ちながら姿勢を正します。教育テレビのドラマだって話の運び方次第ではおおと唸らされることもあるのです。前半のおかげでいろんなお膳立ても整っている。

本当に前半は何だったんでしょうか。
突如サクラサキみだれたかと思いきやその無粋に散りゆく様は木ごと枯れゆくがごとし。しかも除草剤ぶっかけでもしたかのように、大変お手軽な感覚で前半で積み上げた“お膳立て”のほとんどがなかったことになっていきました。度肝を抜かれるとはまさにこのこと。

とりあえず、上に述べた「後半で活かすのかな」という期待は、これまでの文章からすべてお察しください、という有様。人物それぞれについて深みのある描写はまったくなかったといっても過言ではありません。それこそ、前半は抑え目にして後半で掘り下げていくのかと思っていたのですが、前半は抑え目に描写していたんじゃなくてこの監督が濃度の高い“人間”を表現する実力がないだけだったんじゃないかとすら考え直してしまいます。

ちなみに本作が訴えるテーマは「(家族が)お互いをちゃんと見つめること」。にもかかわらず監督が登場人物をちゃんと見つめていないのはいったいどういうことなのか。現実はさだまさしの原作ほど甘くないけれど、映画はこんなに甘くないぞと言ってしまいたい気分。

この人物の描写についてはもはやどこがどうなどと一つ一つ言及できる次元の話ではありません。全体的に稚拙な台詞回しやロケーションばかり意識してだらだらとしたカメラワーク(前半との落差がひどい)、後半開始時点さえも含む展開の強引さといった映画のすべてを元凶にした末の“浅薄”であると思われます。構成の問題です。

一応例を挙げれば、大介がどうしてフリーターになったのか、そして今後どうしていこうという希望を見出したのかについての言及は、結局一度もありませんでした。なんだかかっこいいよさげ人生観らしきものを父親の俊介と語らっただけ。父と息子の友情ってかっこいいだろ?みたいなノリでお茶を濁されていて、見せてほしいのはそこじゃないのにまるで思い上がった表現の数々。だいいちセリフがチープでかっこよくないどころではないんですよ。観ていてあんなに恥ずかしかった映画も正直珍しいですね。

そして、この作品の映画的にいろんなところが決定的となるのが、終盤付近の二大シーン。いやもう絞りに絞って以下二点にしか具体的な言及はしないことにします。キリがなさそうですから。

一つ目は、入り江の歩道橋にて、「もう飛び込んじゃおっかな!」「そうしよう」「えっ」ざぶーん、のところ。えっ?

この作品で、命を粗末に扱うとは何事か?

いえ、それだけでなく、ていうか正直、この前後のくだりも含め、このシークエンスにはもうどこからツッコんでいいやらわからないんですよね。
昭子の「飛び込んじゃおっかな!」は結局台詞の痛々しさ以外何も残ってませんし、そもそも「帰る」と言って明らかに入り江の方に入っていく歩道橋に上ったこと自体意味不明ですし、あまりの行動の痛々しさに前半でもたげていた「彼女は馬鹿ではないが心に傷を負っていじけてしまっている」という同情も消え去って「本当に馬鹿なんじゃないか」と思い始めてしまったくらい。
俊介が飛び込むという展開も、まるで中高生が考える小説みたいな発想で、またまたかっこいいだろという見せつけ臭がすごいですし、会社で成功するようないい歳の男がこんなことをするのは痛々しいだけですし。

何よりこの後ですよ。
痛々しい行動も、何か追い詰められた理由があって、自分という殻をぶち破って起こしたことであればかっこよさに変換されることもあるのです。

というわけで、俊介が口にしたその理由が、「お前(昭子)が振り返るか試したかった」

……ん?

俊介「背中しか思い出せなかったから」

………………。

昭子「ばか!」俊介「今まで悪かった」昭子「私も悪かったわ」ここで泣きながら抱き合う。微笑ましそうに見つめる子どもたち。

かんべんしてくれぇぇ〜(=Д=;)

この世にですね、どうしても許したくないものが二つだけあるんですよ。
“誠意の名を騙った脅迫”と、それを一個の集団が全面的に支持している状況がそれ。
厳密にはこの二つが並立している事態のことを、吐き気を催す邪悪だと考えてるので、一つだとも言えます。

まあそもそもスベってるんで、ここまで貶めなくても充分酷いシーンなんですけど。
明らかに誠意をはき違え、どころか結局自分本位な苦悩の押しつけ・同情の強要でしかなかった俊介の行動と、それを受け入れて支持した昭子の反応、微笑ましさに疑う余地もない空気。よしやウンザリせずにいろと言われることがあるとしたらそれは拷問以外のなにものでもありません。
ていうか、この直前で、咲子がこの旅行のことを「罪滅ぼしだね」と言い表すシーン。まさに“罪滅ぼし”こそ“「(◯◯をするから)許せ」という脅迫”であるのに、それが笑って許された時点ですでにうえええと気分が悪くなっていました(もちろん原作にこんなシーンはない)。ただ、それを聞いた昭子がとても耐えられないとばかりに車を降りたので、浅慮な過ちを指摘できる人がいたと思って安心しかけたのです。そうして上げておいてからの二段落とし。昭子さんはあれですか、自分が俊介の罪滅ぼしを素直に受け入れられないからいたたまれなかっただけですか?一方的な誠意の押しつけに憤っていたわけではなかったようで。

またこの“誠意を騙る”にあたって“命を盾にする”のが最大の巨悪です。
しかも本作は“生きるとは何か”を肯定的に探っていくタイプの物語でもあります。そういう作品の中で、“命を盾にして他人を試す”ことも“命を他人を試すための道具として扱う”ことも、どちらも一番軽々しくやっちゃいけないことだと思うのです。
「家族の再生」が聞いて呆れますよ。ここまで人道を誤解した感涙映画もそう度々お目にかかれそうなものじゃない。有害図書を摘発したい人って今の僕みたいな心境なんでしょうか。

おまけにこの流れで夫婦はあっさり和解。そんでもって直後、あの「謝罪」のシーンがまるで取ってつけたように行われ、そこで使われるはずだったあの俊太郎の力強いセリフは別のシーンに追いやられたばかりかあまりにも非人道的で何のケアもフォローもなくまるでゴミみたいに……いやそれはもういいです。きっとあの「謝罪」のシーンを重要だと思うのは僕の思い入れが多分に影響していることもあるのです。あまり公平な意見を言えそうにないのでここは割愛します。

代わりにもう一つの見所としてあるのが、あの“車内おじいちゃん置き去り事件”。
正直なところ、あえて言うことはありませんね。まともな神経をお持ちの方ならいかに馬鹿げた展開かおわかりのはず。
昭子はおじいちゃんに悪いことをしたと謝ったばっかりですよ?不安を訴えていたのも聞いてましたし、認知症の症状が出れば徘徊を始めるのも知っていたはずですよ?

ここが一番顕著ですけどここ以外もですね、後半が始まって以降、俊太郎が完全に“映画の道具”として扱われているんですよ。
認知症の症状が出ているときにまともに話せないのは当たり前ですし、他の家族関係に焦点が当たっている間空気になるのは避けられないにしてもです、明らかにそのあたりを考慮せず、どころか家族全員の存在感を常に同時に強調することにばかりにカメラも台本も熱心なため、俊太郎の存在感は完全に添え物。認知症の症状がいったん引いた後も同様の状態が続いて、そんなに家族全員が一緒の画面に映ってないとダメですか監督?と詰め寄りたくなったほど。

さらに、俊太郎の故郷を探すというのが旅の目的だというのに、俊太郎の心情はまるで顧みられてないという始末。
「やっぱり帰ろう。僕は自分の記憶が信じられなくて怖いんだ」と言い出した俊太郎に対して、俊介は「せっかくここまで来たんだから最後までやりたい」という、またも自分本位でまるで俊太郎のための答えになっていない答えで押し切り、それを聞いた他の家族が「パパってステキ!」みたいな雰囲気になってシーンを押し流してしまいます。ていうか旅の真の目的である「家族の和解」はこの時点ですでに達成されていて、「無理に故郷を探し当てる必要はない」という意見ももっともだというのにこの処理の雑さ。そもそも会話がまったく成立していません。おまえら宇宙人か!
体ばかりか心も置き去りにされる俊太郎というのも本作にとってのいったい何だったのか。

さだまさし原作に見られる「父と子」というテーマも、途中まであったのにそれからどこへ行ったのか。いやさ最後に「俊太郎の父」という話が出てきましたが特に俊介あたりの問題とのリンクは見えず。ていうか「昔の桜は切っちゃったに違いない」とそれを見たかったであろう本人の前で無粋にのたまう息子の気持ちなんてわかろうはずがありません。
俊太郎の最後の「手を繋ぎましょう」にはある意味涙しましたよ。こんなに身勝手なやつらにつき合わされた挙句、自分もクサい芝居を打とうという道化じみた寛大さに。
泣きたかったんですけど、サクラが思いっきりCGだったせいで泣く前に涙枯れ果てるという事態に。僕の心のサクラサカズニ立ち枯れてるんですがあのちょっと……。

エンディングでさだまさしが歌わなかったらそのまま砂になっていた可能性もありましたが、そこはさすがに空気読んでくれました。いい歌でしたよ。僕は1000円出してあれ聞きに行ったんですね。なるほどねー。

本当に、さだまさし原作のものだけではないですが、邦画の感涙部門にはそろそろいいかげんにしていただきたいところ。
役者は決して悪くないんです。特に俊太郎役の藤竜也は貫禄以上の実力に物言わせた名演。多少クサいセリフでも藤竜也が回せば味わい深くなりますし、本作のどうしようもない演出の中でも俊太郎がかろうじて存在感を保てていたのは藤竜也の演技力あってこそ。
また本作では画面にほとんど出ずっぱりと言っても過言ではなかった緒形直人も実力派の面目躍如。惜しむらくは彼の演技がまったくクサくなかったせいでセリフのクサさが際立ってしまったことでしょう。南果歩も同様。しかし南は少ない見せ場を着実にこなすこれまた名演。一番よかったのが3年前の俊介のアパートで愛人と向かい合っておかえりを言ったときの笑顔ですが(笑)。
大介役の矢野聖人、咲子役の美山加恋もはまり役という意味では及第点。矢野はどうにもセリフのクサさに引っ張られ気味でしたが、後ろめたいフリーターのキャラクターをなかなか自然に表現できていましたし、美山は終始「幼稚園児がそのまま歳だけ取ってしまったような、今時よくある娘の一人」(原作より抜粋ママ)まさにそのものだったと言えます。
この役者の良さの方が際立つ前半だっただけに、後半のがっかり具合が大きかったのかなあとも。

原作を読み返すだに「惜しい」と言いたくもなるんですけどね。しかし製作者が変わらなければ「惜しい」は永遠に「惜しいまま」なのかもしれません。はたしてそれは「惜しい」と言えるのかどうか。

残春

残春