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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

4月16日【劇場映画録『ダラス・バイヤーズクラブ』】

子どもの頃から風邪を引いても風邪だと素直に認められない性分でしてね。お腹を壊していても何を食べたせいだとか全然考えが行きません。“今日の天気”と同程度のものとしかとらえないみたいです。往生際がよろしくなったのも大人になってから。それだって早く治さないと他人に迷惑をかけるからとかいう他人事じみた理由です。

そんなせいか、昔から病院と薬が苦手でしたね。
自分で結果が保証できないっていうのが何より苦手な性でもありまして、実際、病気が治ったのは薬を飲んだおかげなのかどうなのかって自分じゃわからないわけじゃないですか。
だって薬を飲んだ場合、“薬を飲まなかった自分”は未来に存在しないわけでしょう?
“薬を飲んだから回復が早まった”っていうのも、何と比べて早まったのかといえば“薬を飲まなかった自分”で、そんなものは存在しないわけです。

世の多くの人は薬を信用して、治ったらそのおかげだと思うのかもしれませんが、僕は自分で証明できないことは鵜呑みにしたくない性質だった(今もわりとそう)。
狐に化かされる話なんかについてよく、どうすれば騙されないかを考える子供だったし、あの頃やたら食べ物に毒を入れる事件を耳にしたからというのもあるのかも。

しかし、じゃあ薬を飲まなければいいかといえば、飲んだ場合の裏返しで、薬の効果が絶対嘘だとも自分では言い切れないんですよね。
何より、こうグダグダと御託を並べて誰かを困らせたかったわけじゃあないんです。自分の心の内を、そういうふうに“もやもやさせてくる要因”として、薬や病院を反射的に敵視してしまっていた、っていうのが本当のところだと思います。その遭遇の機会というのも必ず体調最悪のときを狙ったようにやってくるわけですから、なおさらなんですよね。


以下、感想本文。直接的なネタバレは避けていますが、物語の核心には触れています。









《「自分の薬は自分で決める」/なにものにも止められない“死からの逃避”/社会派としてはアンフェアな叙事詩的自伝》

“薬”っていうのはそもそも何なんでしょうね?
goo辞書さんからそのまま引用してきたところの語義は次の通り。

くすり【薬】

  1. 病気や傷の治療のために、あるいは健康の保持・増進に効能があるものとして、飲んだり、塗ったり、注射したりするもの。医薬品。「胃の―」
  2. 殺虫剤・除草剤など、動植物に対して主に毒性を働かせるもの。「―をまく」
  3. 陶磁器の釉(うわぐすり)。釉薬(ゆうやく)。
  4. 火薬。
  5. 心やからだのためになること。特に、あやまちを改めるのに効果のある物事。「失敗もいい―になるだろう」
  6. 少額のわいろ。鼻ぐすり。「―を利かせる」

本作で扱われるべき“薬”は、もっぱらこの“1”の語義に当てはまるもののことでしょう。
少なくとも“食べ物”とはその存在目的も意義も異なるもの(似たところはありますが)。その中で最低限、「効能がある」というのが前提とされるもののことと言えます。

ここで、“効能”って何だろう?と聞くと、「☓☓☓に効きますよ」という情報のことだと気がつきます。そして情報というのは、自分を含めた誰かから保証されて初めて肯定され得るものです。
すなわち、“薬”が薬であるためには、信頼に足りる保証によって肯定された“効能についての情報”を、使う人が持っている必要があるわけです。

じゃあ、その保証っていったい誰が行うの?

一昔前までは、医者や薬剤師に類するような人々が、自分の頭の中の情報に基づいて薬を調達してきていたんじゃないかと思います。それが制度化され、現代に至るにあたり、国というものが集約的に保証を出すようになった。国や州によって効能の保証されたものが“現代の薬”と言えるものです。
大局的に見れば、これは概ね正しいことでしょう。医師や薬剤師個人の知識に任せていては、情報のバラつきが出て社会に混乱が生じる。薬を作る側から見ても非効率的です。「誰もこの薬を知らないけれど、使っちゃダメとは言われていない」がまかり通るとしたら、そんな環境に秩序なんてありえない。

なので結論として、個人が薬の効能を保証することは国が許さないことになりました。
国が効能を保証する“現代の薬”以外の薬は、使っちゃダメ、となったわけです。衛生学の世界ではこの制度のことを「ポジティブリスト制」なんて言いますね

「せんせーい。しぬような病気にかかったときに未認可薬品を一か八かで試すのもダメですかー?」
「ダメです」
「それは、認可済も効果がないと分かったときなんか諦めてしねって意味ですかー?」
「ちがいます。でもダメです」

秩序のために死ねとは国であれ誰であれ言うことはできません。
しかし、国という単位はあらゆる問題について、個人よりも秩序を重んじなくてはならないことが多々あります。
そしてそうすると、のっぴきならない事情を抱えた個人との間では、えてして確執が起こるのです。

だって、自分の病気を治すことに関して誰かの許しが必要だなんて、そんなのっておかしいでしょう?

それが本作、『ダラス・バイヤーズクラブ』と、死にかけの主人公ロン・ウッドルーフの物語の発端。

セックスのしすぎでHIVにかかった現役カウボーイ(ブル・ライディングのプレイヤー)のロンは余命30日を宣告され、認可待ちの新薬があることを知りますが臨床試験に一年かかるからそれが終わるまで待てと突っぱねられます。待てるか馬鹿やろうと憤慨したロンは、看護師に金をわたして新薬を横流ししてもらうことに成功しますが、この新薬がとんだ副作用持ちの劇物で、HIVで死なない代わりにそっちの毒で死にかける。そこを運よくメキシコ人の無免許医に助けられ、新薬に隠された毒性と、もっと安全なエイズ対抗薬が外国にあることを教えられるのでした。
これを機に未認可抗エイズ薬の密輸密売を始めたロンは、事業を大きくしていくことで次第に国の医薬品認可制度との軋轢を激しくしていきます。最終的に、認可に関わる国家機関および製薬会社との戦いに身を投じていくこととなるのです。

ただ、本作が取り上げている「国の医薬品認可制度の問題点」について、実際のところは一概に言えないことが多いのもここまで書いた通り。
それに対して本作自体は、市場の独占を目論む一製薬会社と認可機関の癒着(推定)、そしてそれによって強引な方法で単一認可された“抗エイズ薬”が効果に見合わない副作用を持っていたことで、いわば「どちらがワルモノか」が単純でわかりやすいものになっています。社会派的な映画として見るには、このため少々アンフェアであると捉えざるを得ません(主人公はかなり偽悪的なやつなので、こちらが一概に正義と見られるようにもなっていませんが、レイヨンの件は感情移入せざるを得ません)。

一応ノンフィクション(脚色有)なので、アメリカ医薬品業界史としての事実を綴っているわけですから、フェアである必要はないのかもしれませんが、時代背景をわきまえろというわりには感傷的すぎる内容。ここから実社会の問題に言及しようとすると、思想の偏りが若干気になるという話です。

しかしながら本作は、そういった社会問題提起を超えたところで語れる、一つの生き方の例であるとも言える。これもまた感傷的すぎるかもしれませんが、ぼくはそれを“偉大な例”と言い換えてもみてもいいと思っています。

具体的には、国(を初めとした共同体に)ダメだと言われたからというだけで諦めなくていい、という考え方の話。

自分の体と命はここにしかなくて、自分の肉体を動かしているのは自分の脳だけである。
脳が命令さえ送ってしまえば、その電気信号を阻害できる存在などどこにもいない。素の肉体は常に“自由”である。

ただしこれは、数多くのタブーを容認してしまう危険な考え方だとも言えるでしょう。しかし、“容認”や“是認”はそこに存在しません。上に書いたのは、人間が一個の“獣”に戻る考え方だと言ってもいい。“獣”は必ずや人間の社会から弾き出され、場合によっては削除されます。それはたとえ「生きたい」という願いを叶えるために“獣”に戻ったのだとしても、容易には変わりません。

何より、この“自由”は、「自由」でありながら限りなく閉鎖的で拘束的なのです。

劇中でもロン自身がこのように語ります。「死なないのに必死で、生きている心地がしない」と。

ここまでの自己矛盾に耐える覚悟と心があって初めて、人間は“獣”に戻れるのだと言えます。だいたいは不可能です。

ただ、大切なことは、この矮小な“自由”の存在を忘れないことだとは言える。

無理だと言われたから諦める、という多くの人が陥っている思考の単純化から、脱却すること自体は不可能ではない。そしてそれは、決してむなしいことなんかではない。
特に、なかなか我々が疑問を持ちづらい“医薬品”というものを相手取ることで、本作は強調してそれを教えてくれるのです。

まあしかし、こんなに肩に力が入っちゃうのは、やっぱり社会派っぽいからだと思います。理性的なのか感傷的なのかどっちつかずな感想になっちゃってる気がします。
基本的に感傷的な暑苦しい人間だという自覚があるものですから、一概に言えない問題が混ざってくると熱くなりすぎるのを恐れて中立を探しちゃうんです。

逆にいえばとにかく感傷の方は煽ってくる作品でした。
ロン役のマシュー・マコノヒーの「生きたい」がまさに上に書いた通りの“獣”の演技で、ちょっと痛快ですらありましたし。いいですね、マシュー。ロンはかっこいいとかいう以前にむちゃくちゃな野郎でした(笑)

で、やっぱりみんなレイヨン大好きだと思うんですよ。いや聞いて回ったわけじゃないけどそう思いたい(笑)そのレイヨンが最終的にアレですから「製薬会社ゆるすまじ!(`Д´)ノ」ってならないわけがないっていう。

そのくせ描写は常に偽悪的で、突き放すところは突き放してくるんです。おかげでことがそう単純でないことなんかは冷静に理解できるのですが、そうやって理性的に観るべきなのか感傷的に観るべきなのかわかりづらくていろいろともやっとすることは多かったので、苦手な人は苦手そう。

いえ、感傷的になり切れる人は絶賛できると思います。法の外で生きる憧れとかもあればなおのこと。
最終的には、「法は法。でもこいつが立派であることにそんなの関係ねえ!」と痛快にまとまりますし。遺恨は残りつつも、それゆえに「遺志は受け取ったぜ」とでも言いたくなるようなほろ苦さですし。
法に否定されても人に認められて大団円といえば、マイバイブル『アイアムサム』を思い出します。しかしあれよりもラストはしっとりとしていて、どちらかといえば『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ』のような雰囲気で叙事詩っぽいんですよね。「稲妻のように走り、雷のように死にたいか」というフレーズもわりと似合います。


おまけ。予告編は英語版の方が好きですね。英語がわからなくても作品の雰囲気は伝わると思います。
日本のは比較的時期も近くて同じ「自伝」の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』を意識したのではと疑いたくなるようなロックじみたノリですし。

同じ“クスリのはなし”でも大違い……と言いかけましたが(雰囲気は大違いですね)、この点を一概に言えないのも本作の複雑さなんですよね。共通点は意外に多いんです。
ここに話を広げているととても長くなりますから、今日はこのへんで。