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case.728

映画とお人形ばかりで恐縮です

5月29日【俺の脳内彼女は殺しても死なない。〜フィクションにおける“死”の成功と失敗〜】

命を愛でるのと同等に、フィクションにおいては“死”を愛でたい。ぶち殺すときはしっかりぶち殺したいですね。

というわけで今日だらだら書いてるのは、フィクションの中で人を死なせると読んだ人観た人に必ずしもウケるかどうかみたいな話です。

以下、きっかけがほとんどダシ以外の何ものにもならずにフェードアウトしてるみたいですいませんが、徒然考えているうちに思い至ったことを手慰みに書き出しました。眠い目深夜テンションなのでちゃんとまとまってる保証がありません。どこかで脈絡ぶっち切れてるかも。実はちょっといい作品を読んで思うところが多すぎて眠れなくなるという悪癖が発動したっていうか悪癖じゃなくて当たり前の反応ですか。読書、楽しんでます( ∀ )


M3が不協和音?とにかく人選をミスしてる気がしてきたんですよ。
メカデザインは嫌いじゃないので置いておきますが、企画と製作陣とが噛み合ってないというか。
パッと見ると脚本が頑張ってないみたいに見えますけど、演出のせいで死にまくってる面がどうも強いように思えてなりません。
どのくらい外からの声が入ってるのかはわかりませんが、岡田さんは健闘されている方ではないかと思いたいです。いや贔屓目だとしてもそうでなくてもですよ、またここで“やろうとしていること”と“この企画でやれること”が噛み合ってないみたいっていう。演出も助けてくれませんし。

と、こんなにだらだら分析()を並べるつもりはなかった。とはいえエミルの件で何が決定的に思えてきたかといえば上述の話です。
岡田さんのいつものあの話の組み立て方とか最後ふわっとさせてまとめ切らないのとかは、超常的でない舞台だと巧みで情緒豊かな感じに思えるのですが、どうも超常的なものがキーになってくるとそのふわっとしたところがアンバランスの元というか、何がどうなってもあんまり悲しくないし嬉しくない、締まりのなさとして際立ってしまうように思えます。凪のあすからがまさにそんな感じでした。レッドガーデンは現実と非現実が対比っぽくなってたせいか、最後ふわっとしてても締まりがあるように思えたかな。とにかく、あのふわっとした感じが嫌いじゃないしむしろ好きなんだけど、企画そのものやその方向性、それから作品の演出力によってはわりかしコロッと死んじゃう作風ではあるんじゃないでしょうか。まあ動画的演出が微妙でも脚本力だけでどうにかなってる作品ってそうあるものではない気がしますけど。ただ、脚本が捨て身で前に出て勝負しに来てくれるからあの人のは素直に見応えがあるわけで。

いやいや、そんな話がしたかったんじゃあありません。エミルの件です、エミルの件。悲しくもやるせなくも面白くもなかったという意味でようやく可哀想に思えてきた彼女の件。
とりあえず復活はないという前提で。企画からしてそういう臭さがありませんし。退場者は容赦なく退場させそう。いやよしんばされてもあの演出力ではちょっと期待できないですし……。

話は単純です。
人が死んだら悲しいのは当たり前。悲しいのが当たり前。
ちゃんとキャラ付けがされていて、それがホラー映画みたく殺されるために用意されたようなキャラでもない限り、死んじゃえば多かれ少なかれその無念には共感しそうになる。それが普通。
あとは僕の感性が一般的と仮定させてもらいますけど(^_^;)

悲しくない“死”はおかしい。

悲しさとは何か、みたいな話はしないでおきましょうね。人の死を見て心に何か来るものがあったらとりあえずそういうのを全部“悲しさ”という名前でここはまとめときましょう、ここは。アイラブファッキン十把一絡げ。

とはいえですよ、本当にどんな“人の死”を見ても悲しみを覚えるかと問い詰めると、おそらく誰しも首を傾げます。先に書いたことを早くもひっくり返しますが、しかし“人が死んだら悲しいのは当たり前”という理屈の方が実はおかしいんです。

人が死を悲しいものだと思うのは、悲しいものであるはずの“死”を“死”として認識して理解して、共感したり反発したり、何かこう発作的な感情を起こすからなんですよね。そういう感情っていうか反応が、どんな“死”でも起こるかといえばそうじゃない。

すいません、当たり前の話ばっかりしてます。
ですが、これが創作に中の話になると、途端に余計ややこしくなるんです。

小説なんか書いたこともない人にもわかりやすく言いましょう。
たとえばテレビニュースで殺人事件が報じられたとします。被害者が子供や女性やお年寄りだったとしましょう。
これに対して悲しいとか怖いとか腹立たしいとか思う人がいるのは、自然なことですが、なぜそんなふうに感情の波が立つのか。

よく聞く話を総合すれば、これは“仲間意識”というやつです。殺されたのが同じ人間だから同情する。
最近の“人間”はやさしいので人類以外の生物にも容易にこの“仲間意識”を抱けますが、まあそこは問題ではありません。
駅のわんこやイルカに同情するのだってこの“仲間意識”のためだということを押さえておいてもらえれば充分。

この“仲間意識”にはしかしまた形や度合いといった様々な面で個人差があります。
イルカをぶっ殺しても何にも思わない人もいれば、イルカをぶっ殺させないために人間をぶっ殺す人もいる。イルカはわりとイルカですが人間は色々。
ただ、“仲間意識”ああるかないかで言えば、ある方がどうやら多そう。

しかしこれがフィクションの世界になると話が違ってくるんです。
ここで“仲間意識”というものを“同情する義理”と言い替えてみます。
現実の人間同士は、互いに同種なので“同情する義理”がある場合が多いです。縁もゆかりもなくてもわりとOK。平和ですね。
イルカやわんこも、わりとあの手この手で“同情する義理”を獲得します。人間並みにかしこいだとか、人間よりすごいとか、ピュアだとか、かわいいだとか。また、“獲得する”と書きましたが、彼らは実のところ自然体でいるだけであって、実質何もしていません。イルカはイルカなりに。わんこはわんこなりに。

じゃあ、僕の頭の中にいる女の子が、僕の想像の中でいろいろあってちょっと死んだとします。
ここで、そのいろいろあった経緯をかいつまんで誰かに説明して、最終的にちょっと死んだんだと教えてあげたとして、

その誰かは、悲しいでしょうか?

いや、語り手である僕が情感豊かに鬼気迫る調子で言葉を尽くせばもしかしたら……

悲しいでしょうか?

どんなに鬼気迫ってても鬼気迫ってくるのは僕だけであって、相手はとりあえず「この人こわい」って思うんじゃないでしょうか。
よしんばその相手というのが僕という人間をよく知ってくれている友だちだったとしてもです、おそらく「僕が女の子の死を悲しんだ」ということは理解してくれるでしょうが、その女の子の死を悲しいと思ってくれることはないはずです。あってもいいですが、たぶんそのお方は名前の頭にセントとかついてます。頭に鹿のツノとか生やして袈裟着てます。京都にいそう。

これが僕の想像の中から出てきたのではなく、テレビで聞いた話を友達に伝えたとしましょう。
すると友だちの何人かは、女の子の死を多かれ少なかれ悲しいものだと捉えます。僕がちゃんと情報を一揃い伝えれば、女の子が殺されたときのことを想像して「無念だったろう」とか考えてくれるかもしれません。彼らには見も知らぬ女の子に対しても“仲間意識”――“同情する義理”を持つからです。

しかしフィクションの中の少女であれば、何もしないうちから“同情する義理”が現れることはありえない。

実在しない時点で多くの人には同情する義理がない。
たとえノンフィクションの女の子が“同情する義理”を得られるだけの情報量と同等の“死の情報”を人に与えたとしても、フィクションの中の少女が獲得できる“仲間意識”はノンフィクションの少女の足元にも及ばない。

“死”が悲しいものでなければならない場合において、
フィクションの中で何かの“死”を成立させるのって、実はかなりハードルが高いんです。

それに、この“人殺し”の足を引っ張るのは“同情する義理”の得にくさ(与えにくさ)だけではありません。

ワンピースを知っている人に問います。
あの作品の登場人物は、銃で撃たれると死にますか?

ガンダムSEEDを知っている人に問います。
キラ・ヤマトは期待が爆発すれば死にますか?

実写でもいけるでしょう。
戦隊ヒーローは海に落ちて姿が見えなくなるとそれは溺死ですか?
手術室に運ばれていった仮面ライダーはもう帰ってきませんか?

足を引っ張る物の正体は、“セオリー”とも呼ぶべきフィクションの文法です。
この文法を無視しては、フィクションは人物を殺し切れないのです。

この“殺し切る”というのは、同情あるいは共感を得られるように殺すという意味でもありますが、
共感や同情を得る以前に、“フィクションが殺し切れていない人物”というのは、その死に疑問が抱かれてしまう場合を指します。疑問を抱かれると何が問題かといえば、後々“死”が確定的になっても、“悲しい”と感じるべきタイミングとそれがずれてしまうのが問題なのです。

これは“死”に限った話ではないかもしれませんが、「ここ泣くところですよー」って言われて「えっ、ホントに?」という感情が出てくるようであれば、どう転んでもそのタイミングでは泣けないってわかりますよね。これはつまり、そのタイミングで人物を“殺し切れていない”からなんです。
また場合によっては後から「あ、ホントに泣くところだったんだ」と気づくかもしれませんが、それは言うまでもなく後の祭り。当然気分は面白くありません。

受け手の気分を面白くさせる、つまり同情を買うには、必要なタイミングで“殺し切る”しかない。
それがまたしかしフィクションだとなかなか至難の業だったりするのです。

また作品の方針によっても先述した“セオリー”が微妙に異なってきます。
たとえば進撃の巨人であれば、概ね“死”はごまかしようのないものが多いですし、そもそも主要人物でもぼこぼこ死んでいく全体の空気が出来上がっています。シドニアの騎士なんかでも思いますが、戦争を取り扱っていると空気が違うというのもありますね。“死”という非日常が戦場では日常と化す。ナルトもわりと人物の死が当然のように受け取れて、少年誌だから控えめになっているだけにというふうにも思えます。*1

ホラーはまた別ですね。“セオリー”がむしろ“死”の方を支持したりします。受け手は“死”よりも“生存”を疑問視することが多くなります。
というか、他のジャンルでは歓迎される可能性のある“実は死んでいなかった”が、ハナからご法度ですらあります。

では逆に日常系アニメならどうか。ギャグアニメならどうか。
いろいろ言えますが、「Anotherなら死んでた」というよく見かけるコピペがすべてを如実に表していると思います。
Anotherというのは“死”が日常として絶対支持されるホラーアニメ。コピペを言い換えれば「Anotherじゃないから死なない」です。
日常系アニメにおいて、“死”は非日常の筆頭、ほとんどありえないものとして最優先で疑問視されます。多少無茶でも“生存”の可能性があるなら一も二もなくそちらが支持されるのです。場合によっては“死”を否定するために他のどんな非日常も許されたりすることもあるんじゃないでしょうか。

日常系でなくても、先に書いたような“死を否定するセオリー”が存在する場においては、登場人物を“殺し切る”ことが非常に困難となります。この“セオリー”に引っかかれば“殺し切れない”のですから。

かといって、
ワンピースで人が死なないわけではありませんでしたよね。
しかも、あの作品の“死”はわりとどれもつらくないものではなかったように思います。

ワンピースは“誰も死なない”という土台を作っておきながら、話の流れや“過去の人として語る”といったギミックを利用して、殺すべき人を殺すべきタイミングで“殺し切って”います。

要は、演出なのです。
と言っても広義の“演出”なので、“そこに至るまでの流れ”、すなわち脚本によるところも含みます。

とかく、“人の死”を“悲しいもの”として成立させるのには、総合的な“演出”において受け手に“同情する義理”を然るべきタイミングまでに耳を揃えて与え尽くすよう尽力することが必要不可欠であると言えるのです。

無論、作品やその中でのタイミングによって、“必要な同情の量”というのは違うと思います。しかし正直なところ、“演出”において失敗する、あるいは手加減すると、わりと簡単に“同情の量”はゼロになってしまうのではないかと思います。死はアップ系の劇薬であるがゆえに、醒めたときのダウナーぶりがまたものすごいのです。

じゃあどうすればいいか(追記:5月30日)

書き抜かりですね。いやーしかし、どうすればいいんでしょう?(笑)

先に書いた通り“必要に応じて”なので、有効な手段は作品ごとに多様な選択肢を持つことにはなります。逆にいえば、やり方の正解は一つではないので、応じるべき“必要性”を見極めることの方が大事だと僕は考えます。

要するに、とある“死”についてどのように感じてもらうのが一番作品のためになるかを考えればいいんじゃないかと思います。

“どのように感じてほしいか”に終始してしまう人はよく見かけます。出発点としてはかなり有用な感性なのですが、そこに閉じこもってしまうとたいていの場合ひとりよがりな“演出”になります。上で書いた“鬼気迫る調子で空想の少女の死を語る僕”になりがちなのですね。

作品のためになるというのは、受け手がその作品に対して“何を感じたがっているか”に沿っているという意味にもなり得ます。
特に今の情報化社会においては“セオリー”が強まる傾向にあります。ブラックで激しい作品だから派手な“死”を感じたい。暗くて静かな作品だから湿っぽい“死”を感じたい。おだやかで切ない作品だからむしろ裏切られるような“死”を感じたい。受け手はすでに持っている情報、つまり経験から、直感で推理して直感で期待するのです。

その受け手の期待を“必要性”に置き換えて予測すれば、どのような演出が効果的となるかもだんだんと見えてくるのではないでしょうか。
もちろん、受け手の期待に沿うばかりがすべてではありませんが、また論点が変わってくるのでそちらは他の機会に(“期待”の例の三つ目でちょっと触れてるのですが)。今は手段を選ぶ基礎的な糸口の話です。

それに、受け手の期待に沿いさえすればいいということがわかっているのなら、その期待自体をコントロールしたり作り出したりしても構わないということでもあります。むしろそれこそが“演出”の真髄。そうして回りまわって“どのように感じてほしいか”に帰ってくるのなら話は別なのです。
派手な“死”に興じてほしいから、激しくブラックな作品を“演出”する。
湿っぽい“死”を感じてほしいから、暗くて静かな作品を“演出”する。
唐突な“死”に衝撃を受けてほしいから、おだやかでなまあたたかい作品を“演出”する。

人は“裏切り”だって期待できればするものです。
どうすれば人に思い通りの期待をさせられるのか。まずはそこから考えてみるといいのかもしれませんね。

*1:ところで「どう考えても誰が死んでもおかしくない状況と“演出”で誰も死なない超絶肩すかし系脚本」で焦らしプレイを極めに極めればはたして誰か得するんでしょうか